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「半自伝的エッセイ(30)」定跡とハイネケン

チェス喫茶「R」はお酒を出さない店だったが、お酒を置いていない店ではなかった。夜、常連だけになると、それぞれが冷蔵庫からハイネケンの瓶を取り出してきては、それを片手にチェスを指していたりした。

ある夜、そんな雰囲気の中、店に四、五人が残っていた。そのうちの一人、花村さんがビールを飲みながら、盤上でなにやら駒を動かしていた。動かし終わったのか、「ねえ、これ」と言って盤上を指差した。

残っていた四、五人が花村さんのテーブルの周りに集まってきた。
「ああ」
誰ともなくそんなため息に似た声が漏れた。
花村さんが並べていたのは、有名な定跡ではあるものの、そこになると黒が手詰まりになる局面だった。誰もがこの難題に四苦八苦していた。私もそうだった。だったらその定跡を指さなければいいのではと思われるかもしれないが、他の点では優秀な定跡だった。それゆえ、捨て難い定跡だった。

花村さんは、慣れた手つきで局面を戻していった。
「これだと?」
そう言って花村さんが指差した局面は初手から三手目だった。
「ここまで戻すの?」と誰かが聞いた。
「うん、これならあの局面を回避できる」
「進行は?」と別の誰かが聞いた。
それを聞いて、花村さんは、素早く駒を動かしていった。たしかにその進行であれば、例の手詰まりは回避できるように見えた。それから寄ってたかって途中の分岐で別の選択肢を指摘したりしたが、花村さんはすべて検討済みだったようで、いい手を指してきた。

今のようにソフトやAIを使えるような時代ではなかったから、花村さんの手筋がどれだけ優勢を築いていたのかはっきりと数値化できなかったが、かなり有力な手筋だと感じた。問題があるとすれば、エンドゲームになった時にやや不安があることだった。しかしそれも隣り合ったファイルにポーンを残しておけば解消されそうだった。

今から数年前に私がチェスのネット対局を始めた顛末は書いたが、花村さんが当時披露してくれた定跡の改善形で何度も指してみた。それなりの勝率で勝てることがわかった。だったらなぜその定跡の改善形を「折々のチェスのレシピ」などで教えてくれないのかと言われそうだが、負けた対局でほとんど共通の瑕があることがわかってしまったのである。ソフトやAIで解析させても、今のところどうしてもその瑕を埋めることができない。

今夜も私はハイネケンを瓶の口から飲みながら、その定跡の改善に励んでいる。しかし、ゴールはまだ見えない。


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