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「半自伝的エッセイ(27)」チェスと将棋どちらが難しいか(3)

百合ちゃんを亡くしてから、私はもぬけの殻のようになった。その空白を埋めようと私はますますチェスにのめり込んだ。ポーランドでのチェストーナメントの前、百合ちゃんと過ごした濃密な二ヶ月、彼女が亡くなる二週間前に病室で指した最後のチェス、それらの思い出がチェスと百合ちゃんとを分かち難く結びつけていた。チェスをしていないと百合ちゃんがもっと遠くに行ってしまうような気がしていた。

その頃、不思議な現象が脳内で起こっていた。チェスを指している時、レベッカの「RASPBERRY DREAM」が頭の中で再生されるようになったのだった。具体的には、序盤は「RASPBERRY DREAM」の前奏が繰り返し再生され、駒がぶつかる中盤になると歌が進行し、寄せ筋が見えてくるとサビが大音量で響いてきた。この現象が生じてから、私はほぼ連戦連勝だった。

これも百合ちゃんの思い出と繋がっていることは明らかだった。なぜなら、彼女はレベッカが好きで何度かコンサートに一緒に行ったからである。こうして私のチェスは百合ちゃんと不可分なものになっていった。

ところが、ある日を境に、頭の中で「RASPBERRY DREAM」がまったく再生されなくなった。いくら自分で再生しようとしても、曲を再生することはできるのだが、そうすると次の手すら思い浮かばなくなり、盤面に集中すると曲がまるで響いてこなかった。「RASPBERRY DREAM」のリズムに乗って局面を読んでいた私は、頼るべきものがなくなり、自分でも不思議なほどに負けるようになった。

そんな時、「いつまでチェスばっかりやってるの?」そう私に語りかける百合ちゃんの声が聞こえたような気がした。それを機に私はきっぱりとチェスをやめた。チェスを覚えてから駒に触らない日はないような日々を送ってきたのに、百合ちゃんの声が聞こえたような気がしてから、憑き物が落ちたようにチェスから離れた。指したいとも思わなくなった。今から振り返るとなんであんなにチェスに夢中になっていたのか不思議だった。たかだかボードゲームに過ぎないのに。

それから二十数年、一切チェスをやらずに過ごしてきたのだが、ある日、どこかのウェブサイトに chess.com の広告だか記事だかが載っていて、私は反射的にクリックしてしまった。今から五年ほど前のことである。オンラインで対局できることはなんとなく知っていたものの、特にやりたいとは思わないでいたが、 chess.com に搭載されている局面分析機能が気になって仕方がなかった。チェスに夢中になっている当時の、盤と駒を実際に動かして考えた私の研究は正しかったのだろうか? それを確かめたくて登録した。

私が二十数年前に考えた手筋やらなんやらはそんなに間違えではないことがわかった。かなりいい線をいっていた。しかし、瑕があることも判明した。その瑕が当時わかっていたら私は相当の達人だっただろう。ということで、私は再び、その局面分析機能を使って、チェスの研究にのめり込んだ。そうなると、その研究結果を実際に試したくなるのが人の性というもので、私はネット上ではあるが対人で対局するようになった。とはいえ、以前のようにギラギラと勝ちを目指すような指し方ではなく、ただただ自分の研究がどこまで通用するのか、それを確かめるだけの対局だった。通用しなかった局面から、また研究を深める、そんな繰り返しをやっていた。

昔の自分ならその方法論を突き詰めていっただろうが、歳を重ねたせいか、実際の対局では、わざと局面を複雑にしてお互いに長考せざるを得ないような対局に持っていったり、一旦はこちらが明らかに不利になるけれども相手がミスをしやすいような駒組みにしてみたり、そんな駆け引きもごく自然にできるようになっていた。

百合ちゃんを亡くしてから二十数年の間、まったくチェスをやらなかった私ではあるが、将棋は時折指していた。職場に将棋を指す人がいて昼休みなどに指したり、あるいは居酒屋で知り合った人が将棋好きだったりしたからである。将棋を指している時、チェスとどちらが難しいのかと考えることがあった。考えるまでもなく、局面における合法手が多い将棋のほうが難しいに決まっていた。しかし、私にはどうしてもチェスのほうが難しいように感じてならなかった。現在の最先端の将棋もそうなのかもしれないが、チェスは序盤で気を抜くことができない。チェスを知らない人もいるだろうから、以下の例を見てもらいたい。

こんなにあっという間に終わってしまうことがあるのがチェスだった。それを回避しながら序盤の駒組みをしていくのだが、ある程度の棋力があるプレイヤー同士であれば、だいたいどこかでお互いに手詰まりのような局面になってしまう。要するにそれがチェスにおいてドロー(引き分け)が多い理由だった。

将棋ではさすがに序盤の駒組みの段階で詰んでしまうことはない。しかし、チェスには一旦ゲームが始まってしまうと、死と隣り合わせの恐怖がある。チェスはその死の恐怖を手懐けた人が強くなる。といっても、自分のキングを放置してやたらに攻めていけばいいものでもなく、そんなことをすれば必ず自陣に隙が生じる。逆に、盤上の死を極端に恐れる人は、守りを堅めることから始めるが、それでは相手が恐怖を覚えることはない。いかに恐怖を手懐け、同時に相手に恐怖を与えるか、このバランスの取り方が本当に難しい。チェスはほとんど心理戦なのではないかと思うことがある。実際には自分がかなり劣勢なのだが、それを感じていることをおくびにも出さず、お前はもう死んでいるいう風にどんどん早指しで寄せていく振りをすると、相手が頓死することは何度も経験した。逆に恐怖を感じて受けなくてもいい局面で受けてしまったりすると、相手に弱気なところを見透かされてしまう。

私はきっと、これ以上大切な人はいないという存在を亡くした経験から、盤上の死が大したことではないと教わったのだと思う。盤上の死は、おそらくプライドなどに関わることであって、それ以上のものではない。チェスを続けている限り、やり直すことができる。

チェスも将棋も難しい。でも、より知っているゲームのほうがむしろ難しさがわかるだけに、私にはやはりチェスが難しい。

(この回完)


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