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「半自伝的エッセイ(32)」コペンハーゲン・ギャンビット

それほど頻繁に顔を出すわけではないのだが、どうにも気になる人がチェス喫茶「R」にはいた。歳は40代、ごく普通の勤め人のような雰囲気の男性だった。名前を中嶋さんといった。

中嶋さんは白番(先手番)の時には必ず同じオープニングで来るのだが、それは私が知らない序盤だった。いきなり序盤でキングの守りが弱くなるその序盤は、どう考えても不利なような気がするのだが、いきなりビショップをサクリファイスする手筋があったりして、対応がそれなりに厄介であった。

ある時、私は中嶋さんに尋ねてみた。
「これは中嶋さんのオリジナルですか?」
「いや、違うよ」
「すると、確立された定跡ですか?」
「そうなのかな、たぶんそうじゃないかと思うけど」
中嶋さんの返答は要領を得なかったが、それも無理はなかった。中嶋さんによれば、何年か前にデンマークに半年ほど出張に行った際、向こうで何人かとチェス盤を挟むことがあった。すると、白の時にこのオープニングを指してくる人の割合が多かった。で、これはどんな序盤定跡なのかある人に尋ねたところ、コペンハーゲン・ギャンビットだと言った。自分はその時までまるで知らなかったので、面白くてそれから研究し始めた。ざっとこんな感じだった。

その定跡はそれなりに古いものであることをだいぶ後になって知ったが、当時は私が知っている定跡書には載っていなかった。これも随分経ってから知ったことだが、その定跡はダニッシュ・ギャンビットとかデンマーク・ギャンビットと呼ばれており、対応策が見つかってしまったため、廃れてしまったようであった。

しかし、そんなことを知らない私は、ダニッシュ・ギャンビットに魅了されてしまった。なぜなら、ほとんど誰も知らない定跡だからである。誰も知らないのであれば、研究を重ねれば誰も対応できないのではないか、と私は考えたわけである。加えて、ダニッシュ・ギャンビットにはチェスに必要なテクニックや知識が序盤に満載されていたのだった。つまり、相手のキャスリングを阻止するサクリファイスだったり、自分のキャスリングをどうするのか、するのかしないのか、するのであればどちら側にするのか、攻めと守りのバランスの取り方、などなど。成功すればあっという間に勝利が転げ込み、失敗すると無残な結果となる、これほど浮き沈みの激しい定跡も稀だった。私はそこに魅了されてしまった。

私は来る日も来る日もダニッシュ・ギャンビットの研究に没頭した。ところが、そんなことを二、三か月続けていたある日、天啓のように、というのはやや語弊があるのだが、黒が負けない手筋を発見してしまったのである。これは中嶋さん対策としては天啓なのだが、自分がダニッシュ・ギャンビットを指すとすると、呪いであった。黒が負けないその手筋を中嶋さん相手に採用して私は見事に勝利した。そして私はダニッシュ・ギャンビットを知る人が少ないことをいいことに、白番でも勝利を重ねた。

私が中嶋さんに勝った時、中嶋さんは「これはもう藤井君相手にコペンハーゲン・ギャンビットは使えないね」と嘆息した。

それから数十年が経ち、ネットで対局するようになった私は、最初の時期に何度かダニッシュ・ギャンビットを試してみた。すると、多くの相手がダニッシュ・ギャンビットの罠に引っかかることがわかってしまった。おそらくマイナー過ぎてほとんどの人が知らないのだろう。しかし、スコアが上がるとやはり世界は広いもので、きっちり対応できる人が増えてきた。そこで私はソフトやAIを使ってダニッシュ・ギャンビットのさらなる研究に没頭することになった。どうやってもやはり黒がミスをしない限り黒が勝つ定跡であることには違いなかった。でも、局面を複雑にするような指し方をすると、やはり多くの人がミスをする。それと同時に、局面を複雑化することで、私もミスをする。どうも厄介な定跡である。

その中嶋さんだが、もうひとつ不思議な、というより、今考えるとかなり先進的な考え方をチェスに導入していた。どういうことかと言えば、駒の損得ではなく、駒の働きで各駒を数値化して局面を評価するのである。中嶋さんはそれを駒の仕事量と呼んでいた。大学で物理を勉強したことを生かしているというのだが、それがものすごく複雑で私にはすべてが理解できなかった。簡単に言うと、たとえば初形の場合、動かせる駒はポーンとナイトだけなのでその二つの種類の駒には「1」という仕事量が存在する。局面が進むとどの駒も仕事量が変化する。その仕事量の総体の差で先後の形勢判断ができるというのであった。

中嶋さんと盤を挟んでいる時、たまに目の前の局面の数値を尋ねてみることがあった。すると中嶋さんは「87対64」などと即座に数値を答えるのだが、それが大体において皮膚感覚と合致していた。今で言うところのAIの評価値に近いものだったと思う。中嶋さんから教えてもらった計算式はあまりにも複雑で、どうしたらそんな計算を対局中にできるのか私にはまったくわからなかった。しかし、駒の損得が必ずしも形勢の有利不利に直結しないことを、私は中嶋さんから教わった。

その中嶋さんだが、それからしばらくして「立ち食いそば屋をやろうと思ってるんだ」といきなり宣言して、本当にそのために実家近くに帰ってしまった。中嶋さんの作る蕎麦つゆは計算され尽くされていることは間違いなく、きっとおいしいのだろうと想像していた。開店案内をもらったが、それなりに遠方だったので一度も足を運ぶ機会がなかった。


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