自伝 「ドブ川に遡上した鮭」
「ドブ川に遡上した鮭」
そんな不名誉な(?)あだ名をつけられたのは、世界中を探し回っても私1人だけであろう。
鮭は皆さまご存知の通り、清流で産まれ、海へと旅立ち、成長した後に故郷の清流に帰って子孫を残し、そこで一生を終える魚である。
子孫を残すため、その命を燃やして遡上する鮭の姿から我々が感ずるのは、逞しさ、健気さ、命の尊さ、そして儚さ、などであろう。誰もがその生き様を見て、目頭を熱くするに違いない。
北海道の先住民であるアイヌの人々は「神の魚」と呼んだというが、「神」と表現したくなるのも理解できる気がする。そして『ゴールデンカムイ』 は面白い。『ゴールデンカムイ』の作者、野田サトル先生もまた「神」である。「野田カムイ」に改名してはどうだろうか。
そんな「神のお魚様」こと鮭様は、何がどう転がっても きったねぇドブ川で産まれることなどないし、ましてや清流で産まれた God of Fish が わざわざ縁もゆかりもない きったねぇドブ川に遡上なさることなどあり得ない話である。もしもそんな鮭がいるとしたら、自然の摂理に反した「イカれ野郎」である。間違っても「神」などと呼びたくない。神は神でも「腐れ神」である。ドブ川だけにね。
で、私の話に戻るわけだが、不名誉な あだ名をつけられた私は、周りの人間から自然の摂理に反した「イカれ野郎」だと認識されていたようである。
北関東の とある街で生まれた私は高校時代まで地元で過ごし、大学進学とともに上京。大学卒業後はそのまま都内で就職した。
就職してまもなく運命的な出会いを果たす。後に私が「ドブ川に遡上する鮭」となるキッカケとなる人物との出会いだ。
とある日本酒イベントで青森県にある小さな日本酒蔵の跡取り息子と出会った。当時、彼は28歳、私は23歳だった。
日本が誇る『日本酒』という文化の発展のために仕事がしたい
その想いを胸に飲食店に飲料を卸す業務用酒類販売業界で働いていた自分には、彼に聞いてみたいことが山ほどあった。彼もまた同様に、若き造り手として、伝統産業の担い手として、売り手である私に聞きたいことが多くあったようだ。
立場は違えど日本酒への熱い想いを持っていた人間同士であること、また年齢が近かったこともあり、自然と会話は弾んですぐに意気投合。イベント後も造り手と売り手として密な交流が1年ほど続いた。
あの時の私は恐ろしいほどに無鉄砲であった。
日本酒業界の最前線である酒蔵に身を置きたい。
一度心に決めたらもうどうにも止まらないのである。忘れもしない5月のある日。付き合って1ヶ月になる彼女の家でダラダラしていた。
昼食を食べ終わってベッドに横になった瞬間、腹が決まったのである。その勢いで口をついて言葉が出てしまった。
「青森に行こうと思う。付き合って1ヶ月でこんなこと言ってごめん」
彼女が聞き返す。
「え?青森?なんで青森?」
そりゃそうなるよね。
「酒蔵で働きたいから」
「酒蔵...あ...そう...」
しばしの沈黙。ああ、彼女とは別れることになるだろう。開け放った窓の外から若い女の子たちの笑い声が聞こえる。楽しそうに笑うんじゃないよ。今ね、お兄さんたち、割と人生の大事な瞬間なんですけど?
彼女が口を開く。
「いいけど、籍は入れてね?」
突然回ってきた沈黙担当者のバトン。
...ごめんなさい。ちょっと何言ってるかわかんないんですけど。
「…え?籍?」
「一緒に行くけど、籍は入れてね?ってこと」
「え!?一緒に来てくれるの!?」
「は?なに?捨てる気だったわけ?殺すよ?」
語尾が強烈。殺さなくてもよくない?こっちから「別れよう」って言ってないしね?一緒に来てほしいって思ってたよ?ありがとね?
彼女もまたこの瞬間に腹を決めたようだ。こうして「つがい」で青森へ移住することになった。
そうと決まれば移住の前に済ますべきことを済まさなければ。
引っ越し準備、結婚の許可をいただくために彼女の実家へご挨拶、両家顔合わせ、退職手続き などなど、やることは山積みだ。
色々あったけれど(文字数の関係で詳細は割愛)なんとか全て済ませて、いざ青森へ。年内で退職し、移住したのは1月だった。
想像はしていた。聞いてもいた。しかしその想像も、事前情報も、何もかも上回るほどの豪雪。地吹雪で前が見えない。雪の壁が高い。
そして言葉の壁も高かった。津軽弁ってのは本当に冗談抜きで何言ってるかわからない。
特に年寄りの話は1割聞き取れれば良いほうである。
酒蔵出勤の初日、朝一番の仕事は雪かきだったのだが「東京から若い男女が移住してきてここの酒蔵で働くことになった」というのがちょっとした噂になっていたようで、雪かきをしているところに地元のおっちゃんがやってきた。
「嫌われてはいかん、最初の印象が大事だ」と思い、元気に明るく挨拶をする。
「おはようございます!」
「おめえ、◎△$♪×¥●&%#だな」
笑っちゃうくらい何一つわからない。「おめえ = 私」ということだけはわかった。
しかも初対面で二人称「おめえ」って。怒られているのかと思った。
「雪かきするならもっと腰入れろ」的なことか?初日から若造に雪かきマウントかましてんですか?コノヤロー。
とか思ってたら、一緒に雪かきしていた先輩が通訳してくれた。
どうやらすごく褒めてくれていたらしい。おっちゃん、ちっとも伝わらないよ。
これは実際に体験しないとわからないのだが、ほんっとうに聞き取れない。口を開かずにしゃべるので音が潰れているというのも理由かもしれないが、後に真相がわかった。
どうやら物によっては単語そのものが違うらしい。
ある日、休み明けに出勤したら、頭(酒蔵の工場長的な人)に言われた。
「わぃ~!じゃんぼかってきたんだなぁ~!」
じゃんぼかって...?じゃんぼ...?ああ、ジャンボ宝くじ?まだ買ってないけど夢を買ってみようかしら?
結局、ジャンボ宝くじのことではなかったんですね。
「ジャンボ刈る」=「髪を切る」
わかるわけない。なに?髪の毛のことジャンボっていうの?なんで?理解できない。でも受け入れるしかない。そういうものなんだ。ここでは自分たちが少数派だ。
あれ、でもまって。標準語って?なに標準語って。どこにいんの?標準語。
「標準」って何?全然通じないよ?標準語。津軽弁から標準語への翻訳に苦戦してるよ?会いたいよ標準語。標準語シックだよ!?
愛しの標準語ちゃんに会えるのはテレビくらいだ。
テレビといえば青森の夕方のニュースが面白い。
よくある地元の人にインタビューした映像が流れるコーナー。
「エクストリーム津軽弁」 に 標準語のテロップがついてる
洋画を観ている感覚に近いかもしれない。日を追うごとに何を言っているのかテロップがなくてもわかるようになってくるのも面白かった。
まぁ、こんな感じでそもそも同じ国の言葉とは思えないのである。
お国柄でもう一つ。津軽の、特に私が移住した青森県の西海岸側の人たちの特性なのだろうか。若い人たちがとにかく卑屈だった。
ある日、酒蔵で働く先輩に言われた言葉が忘れられない。
「子供が生まれたら、関東に戻ったほうがいい。今は良いかもしれないけど、いつか絶対関東に戻りたくなる。それに子供が俺たちみたいにみっともない言葉遣いになったら可哀想だ。自分たちとは違ってお前は多くを選べる側の人間だ。若いうちに関東に戻る選択肢も模索しておいたほうがいいよ」
標準語でお届けしたが、実際は津軽弁で言われたもんだから余計に胸に突き刺さった。この土地に生まれた自分の運命を呪っているかのようだった。
これはもしかしたら青森だけじゃなくて、他の地方でも抱かれている感覚なのかもしれない。
一生自分たちはここから出られない。若くて優秀なモンはみんな出ていく。
残された自分たちはここで死んでいくしかない。
そんな雰囲気だった。
そこへ来て我々のような若い男女が移住してきたもんだから、彼らにしてみたら全く理解できなかったことだろう。
なぜ生まれ故郷でもないのに、わざわざこんな辺境の地に?
しかも都内で就職してたんだよね?婚約もしてるんでしょ?
北関東の地元に帰るならまだしも、なんで飛び越えてこんな土地に移住?
☞ おめえ「ドブ川に遡上する鮭」だよ。
ってなわけで、不名誉なあだ名がつけられたのであろう。
私は好きだったんだけどね、青森。都会じゃ人間が我が物顔で偉そうに生きているけれど、青森にいると自分はちっぽけな存在で自然に生かされていることを痛感した。
弘前市に向かう山道を車で走っていたら熊を見かけたし、酒蔵の裏に出てみたら猿が集会していたし。
自然の偉大さ、畏怖、そして神秘。それらは酒蔵の仕事からも大いに感じた。
酒蔵では「ジャンボ事件」でご紹介した頭から酒造りのイロハを教えてもらっていた。
蔵の仕事の一つに、タンクの中で発酵する醪の状態を確認する作業がある。
ある日、頭に呼ばれた。
「こっちさ来てみろ。静かにな」
なんだろう、と思いながら後をついていく。
「わがるが?おしゃべりしてらぁ」
たしかにあちこちのタンクから音がする。そしてタンクによってその音は様々だ。
発酵が進んでくると、醪の中からポコポコと泡が出てくる。それがあたかもおしゃべりしているように聞こえるのである。
真冬の冷え込んだ静かな蔵の中に聴こえる「おしゃべり」はとても神秘的だった。
「おしゃべりの邪魔せばまいね(訳:おしゃべりの邪魔しちゃダメだ)」
「おしゃべり」が活発なタンクには特に何もしてやらなくても良いが、「おしゃべり」が少ないタンクには保温などのお世話が必要なのだ。
酒造りのメカニズムが科学的に解明されていなかった時代。古人たちは酒が出来ることそのものが不思議だったことだろう。
ゆえに酒と神事とは密な関係を持つことになったのであろうが、その感覚は今も受け継がれている。
純粋に尊いと思った。涙が出そうになった。日本酒文化を廃れさせてはならない。一度失ったらそこで終わりだ。文化とはそういうものだ。
移住して2年。営業担当として県内外を駆け回った。必死だった。業績は厳しかった。自社の酒蔵を、自社のブランドを、自社の酒を、良い形で後世に残したかった。そのために人生を賭けて移住してきたのだ。実現したいことも、試してみたいこともたくさんあった。
先輩・後輩問わず、同業者や取引先の方に恥を捨てて教えを請うた。
自社ブランド・商品に対する評価が知りたくて、イベントにも積極的に参加した。
時に残酷な評価もいただいた。時に応援してくれる人が現れて手を差し伸べてくれた。
人生で一番、命を燃やした。苦しいことも辛いことも多かったが、毎日が輝いていた。
でも結局、跡取り息子と喧嘩別れという形で酒蔵を辞め、青森を去ることになった。私自身若かったこともあるが、自分を曲げられなかった。
彼の酒造りの姿勢に納得できなかった。自分の熱意と彼の熱意の間には大きな乖離があると思った。世襲制の家業であり、与えられたものをただ維持していくだけのアマちゃんだと決めつけてしまった。
今なら伝え方や接し方は違ったものになると思うが、当時は若さゆえに切り捨ててしまった。
反省はしているが、決して後悔はしていない。自分に正直に決断してきたからこそ、その全てが今につながっていると思っている。
実際その後の転職活動において、行動力、課題解決への意欲を裏付けるエピソードしてこれ以上のものはなかった。そしてこの上なくキャッチーなエピソードだった。
正直「変な経歴」ですよね(笑)
担当してくれた転職エージェントも半笑いでそう言った。
「ドブ川に遡上する鮭」と呼ばれた私は今、巡り巡って地元に帰ってきた。
「殺すよ?」と殺害予告してきた彼女は妻となり、最愛の息子も生まれた。
そして私の実家に入り、私の父母、そして祖母、3羽のニワトリと一緒に暮らしている。
仕事はというと、都内の大手不動産デベロッパーのグループ会社で社内SEをやっている。リモート主体の勤務体系なので田舎暮らしが可能だ。
ここに来て情報量多めでお届けしております。詳しく説明せずにこのまま駆け抜けます。ごめんなさいね。
自分が一番驚いているが、地方零細企業の営業職から大手不動産デベロッパーグループの社内SEに転職した人間は恐らく私だけではないだろうか。
「事実は小説よりも奇なり」
とはよくいったものである。別に自慢したいわけではないが、変わった人生を歩んでいるとは思う。
さてドブ川を脱した鮭の後日談。地方零細企業の営業職から大手不動産デベロッパーグループの社内SEにどのように転職したのか。
物語はここから面白くなってくるわけでございますが、それはまた、別のお話。
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