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『第五夜』

 こんな夢をみた。

 私は、屋根裏の薄暗い部屋に置かれた鏡台だ。自分が一体どんな姿をした鏡台なのかは知らない。部屋にある鏡は私だけだから、皮肉なことに知る由がないのだ。
 部屋には、木製の簡素なベッドと、センスの悪い衣装が何着も収められたクローゼットと、素人でも造れそうな歪んだ円形のテーブルと、萎れた感じの造花が挿された花瓶一つだけが置かれている。ちょうど今頃のような、錆びた夕陽がこの部屋にはとてもお似合いだ。こんな感じなのだから私も自分の容姿に期待してはいけないだろう。

  目の前の扉が、ぎぃーっと悲鳴を上げながら開く。ようやく部屋の主のお出ましだ。いつもその女は、妙によそよそしく部屋に入って来る。
 女は帰って来るなり私の目の前に座って、じっと私を見つめた。いや、実際には私を通して自分の顔を見つめているのだ。底なしに広がった女の黒い瞳孔に、私は悪寒が走るのを感じた。いつものあれが、始まろうとしている。

  女は決まって、帰って来てから化粧をした。それは美しくなるために施されるのではない。何かに化けるために施している化粧なのだ。

 女は仮面のように無表情なすっぴんに両手をあてて、まだ私のことを見つめていたが、発作的に化粧道具をひっつかむと、両の手に別の生霊が憑りついたのではないかと思われるほど強烈な動きで化粧を始めた。右手で白粉をはたくと同時に左手で眉毛を描き、右手で口紅を引くと同時に左手でアイシャドウを塗る。あと少しで仕上がるというところで、女はいつも台無しにするような色のコンシーラーを全顔に塗りたくり、今度は右手で最初とは違う色の白粉をはたくと同時に左手で最初とは違う形の眉毛を描く……これを永遠と繰り返すのだ。

  女の顔の上を何千もの違う表情が嵐のように過ぎ去ってゆく。しかし私は、この女が最後にどんな表情にたどり着くのか知っている。

  夜が深まってくる。ガスランプの揺れる炎が女の顔をめらめらと照らす。女はますます手を速める。

 笑いたくても口角を上げられなかったこと、怒りたくても眉根をよせられなかったこと、泣きたくても涙を出せなかったこと。
 無表情の下で、沸き起こっても沈むしかなかった感情を、女は一日の最後に、こうして本能の奔流に任せて溢れさせるのだ。

  そして……女は黒のドーランを両手に広げた。烏の濡羽のように油っぽい黒で染まり上がった女の手が、べた、べた、とその顔に触れるたび、そこにあったはずの表情に穴が開いて、夜のくらがりへと還ってゆく。べた、べた、べた、べた……

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