『第二夜』
こんな夢をみた。
私は橋を渡るところであった。一見、果てしない上り坂のようにしか見えないのだが、両脇には落下防止のための立派な欄干があり、ご丁寧にも一番太い柱の部分には「橋」と書かれている。両脇には雄大な海が広がっていた。うだるような暑さではあったが、橋の一番高いところから見える景色はさぞ美しいだろうと思い、私は坂を上り始めた。
さて、橋を上っている間に、老婆とすれちがった。老婆はゆっくりと歩いているが、まるその場から全く進んでいないように見えた。
「歩くのが辛くはありませんか。もしよければお支えいたしましょう」
そう声をかけると、老婆はふっと立ち止まり、こう答えた。
「ありがとう。でも、その心配はいらないよ。私はね、もう何十年と、この橋を上り続けているんだ。本当はもうとっくに諦めているのさ」
老婆の返答に思わずぞっとした私は、早足で逃げるように老婆を追い越してしまった。自分も永遠にこの橋を渡り続けるのではないかという恐怖が全身をドクドクと駆け巡っていた。
だが、その心配は幸いにして杞憂に終わった。無事に橋の一番高いところまで上ることができたのだ。胸をなでおろしたところで、今度は一人の老爺が欄干にもたれかかるようにして座っているのが目に入った。
「いい景色だろう」
老爺は私に話しかけてきた。私は陽の光を受けて輝く一面の海を眺めながら頷いた。
「君も、この景色が楽しみでここまで上ってきたんだろう。自分の命を懸けてまで」
なんと大袈裟な言い方をするのだろうと思ったが、ふと自分のことに意識を向けてみると普段よりも大層疲れた感じがしているのに気が付いた。それはただ、坂を上ってきたからというだけの疲労感ではない。何かこう、本当に歳をとってしまったような……。
そう思って自分の手を見た瞬間、アッと声が出た。深い皺が幾重にも刻まれ、無かったはずの染みが浮き出ており、身体のあちらこちらから疲労による悲鳴が聞こえてくるようだった。坂を上ってくる間に、知らぬ内に歳をとっていたのだ、本当に……。
「この橋はね、上るときに人の年齢を普段よりもずっと速く進めてしまうんだ。だが、安心しなさい。下るときは同じだけ時間が遡って、きっと橋の向こう側では、橋のたもとにいたときと同じ年齢に戻るはずだ。勿論、普通の橋と同じで、上り下りにかかった時間の分は戻ってこないだろうけどね」
私は老爺の言葉にホッとするのと同時に違和感を覚えた。
「きっと戻るはずと仰いましたが、あなたはこの橋を渡り切ったことはあるんですか」
すると老爺は首を徐に横に振った。
「ないよ。私は上ってきたきりだ。怖いんだよ。橋の向こう側へ行くのが」
「怖いとは、何が怖いのですか」
老爺は少しの間、沈黙した。そして、意を決したように、口を開いた。
「見たことがない」
その瞬間、サッと冷たい風が吹いた気がした。
「見たことがないんだ。橋の向こう側から人が渡ってくるのを……」
老爺は深くため息をついた。どうも雲行きが怪しくなってきたようだ。普通に考えれば、橋というのは何かと何かを繋げる役目を果たすからこそ橋なのであって、そうでなければ橋とは呼ばないはずである。つまり、向こう側には(この際、島でも街でも何でもいいが)何かが存在しているはずなのだ。だがこの老爺が言うには、この橋の向こう側から渡ってくる人がいない、則ち橋を渡った後戻ってきた人すらいないということなってしまう。それは一度渡ってしまえば、向こうからはこの橋を再び渡ることができない何らかの事情があるということに間違いないのだ。老爺はこう続けた。
「ふと長い坂道を上っていて思った。私は何故この橋を渡ろうと思ったのだろう、何故頑なに、橋の向こう側には何かがあると信じていたのだろうと。途中で何度も元来た方向へ帰ろうと思った。だが、できなかった」
「どうして」
「下りても下りても元来た場所に戻れないんだ。それどころか、今度はどんどん自分が若返っていって、気づいたらほんの幼児姿まで戻ってしまっているじゃないか。このままでは自分は赤ん坊へ戻っていって……その先を考えたら怖くなってしまった。あれこれ考えているうちに私は悟ったんだよ。この橋は元来た場所へ戻ることは決して許されない、進むことしかできないことになっているのだ、と。君も、途中で老人に出くわしたりはしなかったかい? 頂上へたどり着く前に途中で寿命が尽きてしまった人は、永遠にこの橋を上り続けることになるんだ。幸か不幸か、私たちのように寿命が来る前に坂を上りきったとしても、元来た道をたどって赤ん坊になってしまうか、得体の知れない向こう側へ行って『帰らぬ人』になってしまうかのどちらかしかないんだよ……」
老爺はそう言い切って、まるで充電がプツンと切れたかのように項垂れてしまった。死んでいるわけではなさそうだが、完全に放心し、私がいくら話しかけても、もう二度と返事をすることはなかった。
さて、私は決断を迫られることになった。だが、意外にも時間は掛からなかったように思う。この橋の向こう側へ行くことに決めたのだった。人形のようになってしまった老爺に別れを告げ、橋を下る。老爺の言う通り、徐々に私の体は若返っていった。身体も心なしか軽くなってくる。憑き物が取れたような気持になり、歩調がどんどん上がってくる。進むにつれて、どうして誰もここへ戻ってこないのかが分かってきた。それが分かってくると、橋の上に置き去りにしてきてしまった老爺のことが、非常に不安になってきた。だが、きっと私はもうこの橋を、同じ橋を二度と上ることはできないのだ。何故ならこの橋は決して戻ることの許されない一方通行なのだから。
そして、この橋を渡り切る時に、この世界と永遠の別れを告げた。橋の向こう側には「夢の涯(はて)」が待っていた。
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