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絵は何を語るのか?

 こんにちは、タイガです。ここでは、いわゆる有名な絵画作品を取り上げ、なぜその絵が「良い絵」とされているのか考えてみたいと思います。初回の今回はエドゥアール・マネ(1832-1883)の『フォリー・ベルジェールのバー』(1882)を扱います。なぜこの絵を取り上げるのですか?この絵が僕の好きな絵だからです。また僕が英国に住んでいた時に何十回も観に行ったので馴染み深い絵だというのもあります。

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『フォリー・ベルジェールのバー』(1882)

 この世には多くの絵画論・芸術論が溢れていますが、その中で僕が嫌いな考え方が二つあります。それは1.芸術を前にしたときの感動を全て生理学的なものに還元しようという考え方、2.個々の作品はそれ自体で自足しており「美のイデア」のような何らかの形而上的観念を内在させているという考え方です。特に後者はギリシャ哲学者のプロティノスに始まり、現在大衆に流布している大半の本で見出すことが可能な考え方です。このような考え方が招く弊害に関しては別の機会に触れるとして、とりあえず上記の考え方を捨てて絵画を見たとき、「絵画を理解する」=「その作品の歴史的コンテクストを理解した上で思索を展開する」ことを意味するようになります。絵画を前に感動するには、例えば雄大な自然風景を前にするとは異なり、ある程度最低限の知的な訓練が必要であるというのが僕の理解です。

それでは実際に『フォリー・ベルジェールのバー』考えていきましょう。箇条書きにこの作品の優れていている要素を書いていきます。

A.表層的な理解(通俗的な教養本に書かれている程度の理解)

Ⅰ. 線対称な構図と中央の女性が身に纏うドレスの黒色により精妙な形態的・色彩的調和が生まれている。また、女性の黒いドレスは人工光が照らす無機質な屋内空間を強調します。これに関してはどこかの本か展示パネルの文章を使いました。本作に関するいかなる知識も前提としないという意味で最も表層的な分析です。(重要な分析ではありますが)特に付け足すこともありません。

Ⅱ. マネの本作は近代的都市空間に生きる人間の虚無をうまく表現している。これもありきたりの分析ですね。そもそもマネ=「近代的都市生活を絵に表現した画家」ボードレール=「近代的都市生活を詩に表現した詩人」と同じくらい自明な命題で、殆どの美術書では暗黙の前提とされています。この前の「コートールド美術館展」でまるでそのことを秘密の知識であるかのように自慢げに話している年配の方を見かけました。でもそれって鎌倉で「源頼朝が鎌倉幕府を開いたんだぜ、知らなかっただろ」というような恥ずかしい行為ですよね笑。 

 改めてこの作品に関していうと「女性の顔が虚である」=「全面的人格的信頼に基づかないシステム化された商行為を可能にした近代消費社会を表象している」とかは説得力ある解釈ですよね。また「近代的なきらびやかな都市生活(女性の人工的で明るい背景)のなかで労働力を搾取されるプロレタリアートの悲哀を女性が表象する」、当時往々にしてバーの女中が性的サービスを提供していたことを考慮すると「表面的繁栄の裏で歪みを抱え肉体すら商品として消費する近代文明を告発した」作品としても読めると思います。マネが、娼婦の悲惨な運命が描かれる『ナナ』を著したゾラと仲が良かったのも納得ですねいずれにせよこの作品は近代に対する批判であるという解釈はそれが他のマネの作品にも通底する基本的考えであることも含めてまず間違いないと言っていいでしょう。

B.より深い理解に向けて

 A.で書いたことは全てそれ自体としては正しい解釈だとは思います。でも、それは例えば書店で平積みされている「教養としての絵画」的な薄っぺらい通俗本に書かれているような理解であり、どうしても表層的な理解にとどまると言わざるを得ません。ここからは『フォリー・ベルジェールのバー』についてより深く考えて、みましょう。

Ⅲ. 本作は「視ることへの欲望」としての絵画の本質、絵画とは何であるか、を提示している。

 わかりやすく説明しましょう。ダントーの芸術論に従うと、20世紀以降芸術は自己定義を試んだ結果、「芸術は何であるかという答えを表明したものが芸術になる」(僕の表現ですが)状況を迎えます。これは主に二つの方向で試みられます。

Ⅲ-1.  まず、芸術の境界を拡張する方向。その最も有名な作品がデュシャンの『泉』(1917)です。(武蔵生はお馴染みの)

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 『泉』の芸術的価値は「この男性用小便器が芸術である」と主張し既存の芸術に挑戦した、まさにその独創性にあります。このような状況では芸術は常に前の芸術を否定し芸術を拡張するものとして駆動します。(ダントーはヘーゲル的歴史観に従いもっぱらこの方向を議論する。)

Ⅲ-2. もう一つが既存の芸術体系に潜む無意識的構造を明るみに出す方向。この方向の中、特にフェミニズム芸術が先鋭化させたのが「絵画は(男性特権階級による)視ることへの欲望を充足させるメディアであり続けてきた」という問題です。説明するならば、絵画とは男性の自分は見られることなくして、世界を(=女性を)を見たい(=支配したい)という窃視症的な欲望を充足させるものであったという批判です。そしてそうした絵画の潜在的構造を批判的に提示するものが芸術となります。

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 男性の窃視症的な欲望に言及している最も有名かつ最も古典的な図版。デューラー(1471-1528)の木版画。

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 マネの『草上の昼食』(1863)(左絵)も思考対象となりました。なぜマネは女性を裸に男性を着衣に描いたのか。なぜその逆の表現はなされなかったのか。ピカソはこの絵が潜在的に含む男性的欲望に批判的な多数の模写(右絵はその一例、男性も裸体である、左手の位置に注意)を残しています。(中には勃起した陰茎が書き込まれているものもある)

 話を『フォリー・ベルジェールのバー』に戻すと、この作品は絵画というものが無意識的に抱える「視ることへの欲望」(Ⅲ-1.)を自己批判的に言及していると読むことができます。女性の背後が鏡になっていることはお分かりいただけると思いますが、そこで女性を見つめる男性(そこに支配ー被支配関係が内在していることはⅡ.で書きました。)の肉体は鑑賞者私たちと女性の間に位置するはずですが、表象空間には含まれません。彼の肉体は私たち鑑賞者の身体と同一になり、絵画の鑑賞者が抱く欲望が顕在化することとなるのです。19世紀の作品でありながら、絵画という芸術への自己批判的な自己定義を行なっているという意味で『フォリー・ベルジェールのバー』は絵画史に燦然と輝く傑作なのです。

Ⅳ. 絵画が自足的な表現として決定的な一歩を踏み出した作品である。

 まあこれですよ、僕個人的にこの作品が本当に凄いのは。女性の背後が鏡になっていることは先ほど述べました。描かれている瓶から背後が鏡であることは了解されますが、絵の表面と並行な平面に鏡があると考えるならば、女性の背中は真後ろに映るはずです。しかし、作品では女性の背中の鏡像は右にズレて写っている。不自然ですよね。技術上のミスでしょうか。いや、実はこのズレこそが本作の卓越を示しているのです。

 ここで再び美術史の話に戻しましょう。初期ルネサンスの建築家アルベルティは絵画を「世界の窓」とみなしました。窓の平面に外の景色が映るように絵画は三次元空間の物事を二次元平面に表象として写しとることが最善の目標とされました。そしてそのことを可能にする革新的な技術が遠近法でした。そして16世紀の美術家ヴァザーリが定式化したように、絵画はそれ以降空間における視覚経験に等価なものを如何に生産するかを軸として発展してきたのです。ダ・ヴィンチもフェルメールもアングルもその例に漏れません。

 しかし、マネは『フォリー・ベルジェールのバー』で「目に見えるものをできるだけ正確に画面に映しとる」という西洋絵画の大前提に反旗を翻すのです。マネは空間における視覚の論理とは異なり、絵画平面にはそれ自体として独自の論理があることを確信した最初期の画家だったのです。彼はその確信に基づき意識的に鏡像のズレを持ち込んだのです。もちろん、同時代に写真術(ダゲレオタイプ)が実用化され、空間を二次元平面に完全に映しとることが可能になった影響は非常に大きいです。絵画と写真の相互作用については十分な注意が必要です。

 マネ以降、セザンヌの決定的な影響を経て、西欧絵画は絵画平面それ自体への探究へと向かいます。

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 カンディンスキー『緩やかな上昇』(1934)など世界の事物を表象しない抽象絵画が可能になったのもそもそもはマネのそれまでの絵画表現に対する挑戦あってのことです。

 まとめると『フォリー・ベルジェールのバー』における鏡像のズレは西洋絵画の方向性を180度転回させました。鏡に映る彼女の寂しげな背中、そのわずかなズレが美術史に決定的な影響を与えたことを考えると改めて絵画作品の可能性を思わずにはいられません。

 長々とお付き合いいただきありがとうございました。かなり自分では書きたいことを書くことができた気がします。これからもよろしくお願いします。

タイガ

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