見出し画像

「私はなんて素敵」と信じられるチカラ

最近ある映画を観て、なんだかやたら
考えさせられたので少し書いてみる。

自分の容姿にひどくコンプレックスを持つひとりの若い女性が、ある日ジムで転倒して頭を打って目覚めると、鏡に映る自分の姿が「完璧な美女」に見えるようになってしまう。

ただ美女に見えているのは自分だけで、他人からはもとの姿のままで見えていて、つまりある日突然自意識だけが「太っていてブサイクな私」から「セクシーな美女」に変わってしまうのだ。

これまで全ての言動が自信なさげだった彼女が「私って最高!!」という自意識で生活するようになると、そんな彼女に周囲は最初「彼女、何を勘違いしてるの?」という冷ややかな視線を送る。

だけど、次第に「自分を表現して生きる」彼女の姿に皆の心は惹かれていく。
…というストーリー。

映画としてのわかりやすさから「容姿」に絞ってストーリーは進んでいくのだけど、これはまったくもって女性の容姿に限ったことではないなぁ…と私は痛く感じ入ってしまった。

「人と比べて自分は優れているか、
劣っているか?」

「周囲の自分を見る目」=「自分」である。

私たちの社会が持つこのOSは、私たちが自覚する以上に根深いなと思う。

…いつから私たちは、こうゆう思い込みに取り込まれて人生を生きるようになるのだろう?

「周囲の人から『できる人』『感じの良い人』だと見られたい。一目置かれたい。重要視されたい。」という動機から来る言動は、「周囲から認められなければ自分には価値がない」という、無意識にだけど認めがたい、自分の中の「大きな不満足感」から来ていると思う。

そしてたまに、自分と境遇が大差ないのに、そのOSで生きていない「私は誰より素晴らしい」という感じで生きてる人に出くわすと、「勘違いしちゃって、なんてイタイ人」という目で観たりする。

…そもそも、周囲から「自分のことを勘違いしてるイタイ人」と見られることを、私たちはなぜそれほど嫌うのだろう?

「滑稽な自分は恥ずかしい」という思い込みは、私たちはいったい誰から学習するのだろう?

大昔のことだけど、一番最初の職場で初めて自分のデスクを与えられ、ウキウキしていた私は、お気に入りのポストカードを小さな額縁に入れ、その額縁に「R E A」とアルファベットのシールを貼った。

それを見た同僚に「自分のこと大好きだよね…」と言われ、そのとき私は酷く傷ついてしまったのだ。

その同僚に皮肉めいた意図は無かったのかもしれないのだけど、私はそれを「イタイ人だと言われた」ように感じた。

それは当時の私の中には既に「自分大好き人間はイタイ人」という意識があったから、そう受け取ったということなのだと思う。

今考えてみると、「自分大好き人間はイタイ人」という価値観そのものが、チャンチャラオカシイと心底思う。

でも、このケースに限らず、恐ろしく不真実な「社会や他人がつくった価値観」に、私たちの言動がいかに縛られてるかに気づく。

「他人の価値観」を信じ込んで、自分が本当にしたいこと、言いたいことを、いつしかしなくなっている…

そうゆうことって、ないだろうか?

「自分を心から愛する」とか「高い自己肯定感を持つ」とかっていうのは、言葉ほど簡単なことじゃない。

映画の中の主人公だって「奇跡」が起こらなければ、そうは思えないという想定なのだから。

でももし、自分が何者であっても、
何をしていても、何をしていなくても、
誰がどう思っていても、思っていなくても、
すべてに関係なく
「自分はなんて素敵なんだろう!
なんて素晴らしいんだろう!!」と
心から思えたとしたらそれは、
間違いなく人生を豊かにする、
大事なチカラを持っている
ということな気がする。

そのチカラを手に入れられたら
…どんなことが変わり得るだろう?
…どんなことが起こり得るだろう?
…どんなに素敵な気分で生きられるだろう?

妄想するだけで、ちょっと幸せな気分になれそうな気がしてきて、私はひとつ心に決めたコトがある。

それは、これから毎日この「Beingの妄想」をしてみるというコト。

それをしながら、自分の中に染み付いた「社会のOS」「傍目のOS」が、いつしか「私のBeingのOS」に書き換わると信じて。

…とまあ、こんな事を思わせられる、
そして愛嬌たっぷりの主人公の姿に勇気づけられる、
ちょっと素敵な映画のタイトルは
「I FEEL PRETTY (私はきれい)」という。

I FEEL PRETTY

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?