目先の感情に囚われない

徒然、してますねー。
結構、気に入って書いているじゃないか。
NOTE、読むことの方が多かったけれど、
活用しだすと楽しいものですよね、あと、便利。

何か、めっちゃ怒ってるなあとか、
めっちゃ主張してくるなあってときに
「いやダァぁあっァあああ!!!!」って”気持ち”にまとわりつかれちゃってるなー、ボッボボッボ燃えてるのを鎮火したら、案外炭自体はそんな複雑じゃないねえ、ていうことってありませんか。

つまりは、その時のご機嫌とか、気分とか、相性とか、
前後の(その人の身に起きた)出来事に左右されて
ウォオオって大騒ぎにされちゃってるだけで
実際刺さってるトゲ自体はめちゃなんてことはなくサクッと抜けるみたいな。

料理の注文で「これもあるよ、あれもあるよ、」て言われて
でも自分はまだようやく座ってコートを抜いている段階だから
「いまじゃねえ」「急かすな」「待て」「コートぐらい脱がせろ」みたいにちょっと心中ざわついて
ましてや「トイレ行きたいな」とか思ってたら余計に
「自分で見るから!」「自分で決めるから!」みたいにちょっと強く言っちゃうみたいな。
そんな言い方しなくたっていいじゃない、みたいなことになるけど、
いらっとしちゃったのは事実、みたいな。
そのイラッって、目の前でのやりとり自体には関係なかったり、
互いが主張してオラオライライラしてるけど、「大事な論点はそこじゃない!」みたいな時とか、。配管のつまってるとこ見つけて手順を追ってほぐせれば、スッと静かに水は流れますけど?みたいな。。

大人でも、
ぎゃあぎゃあぴいぴい言ってっけど、「お腹すいたんだよおおお!!!!」みたいな状態
あるなーと。
子どもちゃんも、「眠いイィいい!」みたいな時とか「食べたイィイィいいい!!!」みたいなときに
なんだか心がぐずぐずだから、事象としてはシンプルに「布団に入りたいです」「食事をしましょう」でいいのに、とんでもないことになるじゃないですか。

大人の、文句や不満、ちょっとあたり強めの一言、「おおう!」みたいな大きな声、愚痴のような悪口の様な批判の様な、そういうことも、蓋開けたらその人自身が引っかかって違和感感じたり解決をしたいことってシンプルで、だけど、目先の、自分の心の状態に振り回されて、夕泣きの子どもと化してしまってるなと思うこと、よくあります。

なんだか自分は、不惑をすぎた人の思いっきり惑う「あの人が嫌」みたいな、あれーそれ小学校の時にあって既にその時分に乗り越えたわねーみたいなことを、言いつける先の先生みたいなポジションになることが時々あります。

あ、でもこれ、ちなみに舞台をつくる過程ではあまり遭遇しないのは、ラッキーだったりなんかもうそういう次元にいる人たちは上に上がっていけない/残れない、静かにばっさり切り捨てられて淘汰されていくとか、あとは、私が巡り合ってご縁をいただく現場や周囲の方々は、もはやそういう次元にいる人たちじゃない、みたいなこともあるのかな。
それぞれがプロフェッショナルであるので、また、一堂に会し、都度解散していくみたいな毛色が強いのもあるかもです。コミュニケーション能力が必然的に高まっていくような場だろうから、もともと高い/磨かれて残った方々なのかもしれないし、いや、もちろんクリエーションではアイディアをかましあうことはあるだろうが、輪を尊ばないと現場呼ばれないし(呼ばれにくいし)。
その人にしかできない、その立場にしかできない、みたいな職人域の方々に接することが多いわけで、互いにリスペクトを持って接する、みたいな雰囲気は醸成されているのかも。

で、でも、大味に「あの人が嫌」みたいな気持ちから「あの人の行動が気に食わない」てスイッチがオンになっていて、
「あれをしているけれど間違っていると思う」「〇〇すべきである」みたいなお話を持ち込まれる時
「あの人が嫌、行動が気に食わない」という感情面と
「〇〇すべきだ、是非がどうだ、正誤がどうだ」みたいな主張って
切り離して考えないと解決しないよなー、て、そういう時、思います。

びゃあびゃあ言うてることの中身を解きほぐしていって、
それってつまり、「これをこうして欲しい」という主張だね?とわかった時
それについては、「このように解決ができるかもしれない、こういうスタンスでいれば受け入れられるかもしれない」「こう思うから負担に感じたり間違っていると思ったり不愉快に感じたりするのかもしれない」と、見つけてフィードバックができます。
主張に対して、返答ができる
でも、それと違う、その主張を包んでいるざらついた感情とかっていうのは、周囲に撒き散らしても、解決しないし。なくすのは自分だし。
それを反芻してずっとプスプス不愉快な気分の中に自分を居続けさせてるのも、自分だよなあって、思います。


それをね、だいぶ、20そこそこの頃から、思っていて。
自分は、自分の感情が小波立った時、「うおん!いやだなあ!!ああん!これが理由なんだねええ!!うおおん!!」って、ボッボボッボしながら、真ん中の炭が見つかりやすいです。「あああああんん!!!!!お腹すいたああああ!!!!」ってぎゃあぴいなりながら、「お腹すいたねええええ!!!何か食べようねえええええ!!!うおおお!!!この世の中滅びろ!!!!はいよしファミチキ食べまーすもぐもぐもぐもぐ」て感じ。
でも、そういうことを自分で/そういう自分のことを自分で気づける人って、全員じゃないんだなーって、いろんなボッボッしてる細胞たちに出会って、思わされます。

だから、お話ししている時に、あれ?なんで、この人は今イライラしてきたかな?って、なった時、その人の中でイライラの原因が見つけられたらいいなと思うし、自分もしかり。あと、相手に「あーこれが嫌なんだなー、これがやだったんだろうなー」てのが見えた時は、ボッボボッボたぎってる炎やその熱さにあおられず、動物園のオリの向こうで動物を眺めるような気持ちで、振り回されず/怖いなとか不安だなとか困ったなとか嫌だなイライラ、みたいにこちらに感情の細波を起こさずに、沈着なままでいられます

いうて、私自身、毎度、こんな達観していられたら、泣いたり怒ったり悔しがったりは、しないので、

別に、全て習得したシャクソンでもジャクソンでもないんですけど。

でも人よりは、「あー、ボッボしてるわー、赤ちゃんになってるわー」て、
思って眺めてることとか
ぶんすか!て持ち込まれた不満を、 え? 寺か?私。
..えー、不満を、「トラブルが起きている!解決してあげなくちゃ!大変だ!」みたいに、なりすぎなくていいなあと、思うので

感情の問題と、本来の問題と、いっしょくたにしないほうがラクやで


感情は、自分の中に渦巻いている感触、感覚、
引き起こされている問題は、解決や解消を望む単なる事象

感情は、金銭で解決してください。おいしいもの食べるとか、マッサージで自分を労るとか、娯楽に触れるとか、旅に出るとか、自分で色々できるでしょ。風を感じて空見上げるはお金かからないし。大体こういう時の人って、風を感じれません、気がつけないのよ。
風を感じられる人でいたいですね。気づける状態でありたい。

ハイ、個人的な哲学なので、私見の、暴論でございました。
もうちょっと、共感力高い文章にしたためたかったとは思いつつ。。

ChangChang。

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