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やさしいとは何かわからない

やさしさ、やさしいとは何か…意味を調べると思いやりがあって場がこまやかだとか、穏和で好ましい感じとか、刺激が少ない…といくつもあった。

私は穏和でありたい、やさしい人でありたいと思う。感情を露にしたところで物事を冷静に見つめられるようにはならないし、良いほうに転ぶことが少ないように思うからだ。

そのやさしさは人によって感じる度合いは変わってくる。見せつけのようなやさしさで心を動かされたり、ほんの小さなことでも感動したり。献身的にしてもらってようやく感じる人、などなど…

ただ現実は甘くない。私は献身的に何かしたい人に出会えていないからか、そこまで身体を張って何かに貢献できていないし、なによりも見せつけるのは苦手だ。

死んだ魚のような目をしていた新人の頃、仕事の精度を高めようと日々努めていたものの、職場の上司に「頑張っているところが見られない」と指摘されたときのことを思い出す。こういったものは他己評価だ。自分が決めるものではないことはわかってはいたし、じゃあ頑張ってないんだなとは思ったが、いざ言われると自分なりに築いてきた今までの努力が霧消とされた気がして悲しい思いをした記憶がある。その上司の二言目がアピールをしろ、であった。それから現在に至るまで、アピールはできていないし、むしろしようとも思っていない。

とは言っても、指摘された当時はどうアピールできるか考えていた。ただ向いていないし、そこまで表立って誇れるものもない…そう悩んでいたところに、学校の読書タイムで擦り切れるまで読んでいたほんの一言が脳裏にパッと浮かんだ。島田洋七さんが書かれた「佐賀のがばいばあちゃん」の一言。

他人に気づかれずにするのが本当のやさしさ、本当の親切。


これで悩みが消え去った。そうだ、気づかれずに自分が気付いたことをやればいい。本当に頑張っている人は表立ってその姿を見せることなく、裏で研鑽をしっかり積んでいるから、いつの間にか表にもにじみ出て色濃く映えるのだと。親切とか、優しいと思われたくてあえてやるわけではなく、無理に見せることなくやればいいんだというマインドにも思えて、それが救われたのだ。

私はそれから人に気づかれずに勉強して資格を取りつつ、身の回りの誰かがやらなければいけない仕事を気付かれないうちに、素知らぬ顔で片づけることに努めていたり、そのマインドを大切にしている。そこを評価されたいわけでもないし、そもそもここにそんなことを書いている時点で偽善者かもしれない。

けれど、その自分なりのそのマインドが、誰かの心を動かしているのかもしれない。見返りのない純粋なやさしさがそこに現れているのかもしれない。

ただ、そのマインドをベースに過ごしているからこそ、ほかの誰かがいつの間にかくれているかもしれない「やさしさ」を守備職人のように広い守備範囲で、確実なグラブ捌きで受け取れると思っている。やさしさを受け取れるからこそやさしさを返せるのなら、私のなりたい「やさしい人」になるにはそれだけやさしさを受け取らねばならない。それがありあまって少しの希望になれば、私の、今も持っている死んだ魚のような目にも命が宿るかもしれない。

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