毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期編2】
私は毒親から酷く沢山の虐待を受けてきた。
暴力・言葉の暴力・経済DV・束縛・支配・過干渉・監視・ストーカー等
それは幼少期から既に始まっていた。
だからこそ、その毒親による虐待は「当たり前」であると洗脳されていて、大学進学の為に上京し自由を知った時、「毒親の異常性」に気づいた私は毒親から逃げる事を決心した。
逃げて逃げて…その度に毒親に捕まりまた支配されて、心が少しずつ壊されていくのを感じながら、それでも逃げるのを諦めなかった。
最終的には縁あって海外移住をし、毒親からほとんど離れることに成功した「高木レンガ」の毒親から逃げた過去の物語である……。
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私の古い記憶を辿って、2番目に古い記憶。
それは大きな病院に連れていかれたことだ。
今思えば恐らく県内で一番大きい子供病院だったのだろう。
子供病院の待合室で長い時間待っていたのを覚えている。
天井にはカルテをまとめて自動で移動する「カルテモノレール」が時折動いていて、そのカルテモノレールにはゾウやウサギなどの可愛い動物の絵が描かれていたからそれを目で追いかけていた。そんな面白い記憶だ。
それから、医者に会ってなんらかの対応をされていた記憶もあるし。
奇妙な事に、待合室で対面の席に座っていた私よりちょっと年上の女の子が私に向かって口パクで「バーカ、バーカ」ってしつこく言ってて、私はそれに対してのリアクションに困っていたという記憶もある。
まだ幼稚園にも行ってない程小さな年齢だったのに、耳も聞こえないのに、その言葉の意味をしっかり理解していたのは本当に覚えている。
きっと私はいつも親からバカ、バカと言われてたんだろうなぁ。
私の幼少期の記憶はとにかく病院に何度も行っていた記憶。
それは恐らく私が難聴になったから、補聴器を付けるために沢山の診察が必要とされていたから。
だから、まだ幼稚園に入る前の頃の記憶には愛情が無かった。
ただひたすら病院にせっせと行く。
そんな慌ただしい記憶。それは黒やグレーのオーラに包まれている。
その後に私は幼稚園ではなく、聾学校に行くことになったのだが…
その時の記憶は赤や黄色のオーラに包まれた、
とにかく暴力ばかりの辛い最悪な毎日だった。
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今では差別的な意図をなくすために、全国的に「聴覚特別支援学校」と言われているようです。ですが私が行っていた当時は「聾学校」と呼ばれていたので、このまま記載させていただきます。そこに差別の意図はありませんことをご理解頂ければ幸いです。
※※※ここに記載された内容は、私が毒親から逃げた過去を小説化して記載したノンフィクションです。ただし身バレ防止の為に登場人物の名前や特徴・場所等にはフェイクが加えられています。※※※
毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期編1】はこちら……
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