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毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期3/聾学校編】

私は毒親から酷く沢山の虐待を受けてきた。

暴力・言葉の暴力・経済DV・束縛・支配・過干渉・監視・ストーカー等

それは幼少期から既に始まっていた。

だからこそ、その毒親による虐待は「当たり前」であると洗脳されていて、大学進学の為に上京し自由を知った時、「毒親の異常性」に気づいた私は毒親から逃げる事を決心した。

逃げて逃げて…その度に毒親に捕まりまた支配されて、心が少しずつ壊されていくのを感じながら、それでも逃げるのを諦めなかった。

最終的には縁あって海外移住をし、毒親からほとんど離れることに成功した「高木レンガ」の毒親から逃げた過去の物語である……。


◆◆◆  ◆◆◆


私は幼少期に高熱を出し、親にネグレクトされた結果両耳の聴力を失った。

結果、私は幼稚園ではなく聾学校に通うこととなった。

私の家から聾学校まで車で1時間。

これを毎日毎日親に車で送迎してもらい通っていた。

ここでは健常児が通うのほほ~んとした幼稚園とは違い、とにかく暴力と共に教育をするスパルタな場所だったので、

子供らしく遊んだような平和的な記憶がない。

今だから分かるけど、私は物心つく前に難聴となっていたので言葉が遅かったんだと思う。だからこそ「右、左」なんて簡単な単語を覚えたのも4歳か5歳くらいだったなぁ…。

だからこそ、幼稚園のように1日中遊ぶということはせず、朝から夕方まで絵が描かれたカードなどを使って新しい言葉を教えられた。

それならまだいい。

とにかく最悪だったのは発音の矯正。

毎日放課後に1時間ほどかけて発音の矯正をされたのだが、先生の指示の通りに頑張って発音をしてみる。

しかし私は子供、そして初めてやる事。初めてじゃなくても1度一瞬で身につくことではない。

その練習している発音が1回でも上手くいかなければビンタやゲンコツを毎回喰らわされて地獄だった。

私が拒否すれば毒親からも殴られているため、しぶしぶ受ける日々であった。


聾学校では言葉関連に限らず、体育・プール・演劇などの授業もあったが、とにかくスパルタで、今思えば小学校教育をそのまま幼稚園児にやらせていて鬼畜だった。

とにかく弱音を吐くことも許されなかった。……ビンタされるから(´;ω;`)

例えば子供の演劇はとにかくリアルとクォリティー重視で、健常児にはあり得ない程の長い尺と多すぎるセリフを覚えさせられた。

プールも…大人用の深すぎるプールで浮き輪なしで泳がされていた。

体育も幼稚園でやるようなレベルじゃない。小学生と一緒にサッカーや道具を使った陸上競技やマラソンなどをさせられた。

給食の時間は大嫌いだった。

幼稚園と違い、ご飯を残すことを一切許されず、尚且つ時間内に食べる事を求められていた。

私はもともと体が小さく、小食で食べるのが遅かったので毎日先生に殴られ、泣きながら食べていた。

窓から道路があるのでそこを走る車が見えるのが楽しくてちょっとよそ見してしまう。ほんのちょっと目を窓に向けるだけで殴られる鬼畜さであった。


本当に、ここは日本なのに、北朝鮮が幼稚園児に完璧なパフォーマンスを求めていたのと同じことをされていた。

今じゃ社会問題になるのに、当時は当たり前なのか、この聾学校が異常なのか知らないけど暴力が日常にあった。

今思うと、私はこんな頑張っていたのに、弟はのほほ~んと幼稚園で遊んで昼寝していたのがムカつくw

(あっ、聾学校では幼稚園定番の昼寝も全くなかったなぁ…)

と、まぁそんな風に地獄な日々で、少しでも失敗したり弱音を吐けば先生から殴られ、蹴られ、ビンタされてきた日々だった。


そして家に帰れば親に今日の成果を発表させられた。

聾学校から帰る時の車内はもっと最悪だ。

母が運転する車内で私はいつも後部座席に座っていたが、その日に学んだことを復習させられていた。

ここでその日学んだ単語をちゃんと覚えていなくて答えが出せなかったら、運転中だろうと運転席から上半身を乗り出して後部座席にいる私をボッコボコにヒステリックになぐってきていたのだから。

この頃から毒親は教育系ママになり、私に完璧を求め、家庭内生活上でも少しでも失敗すればドシドシ殴られた。

私は母が怖かった。嫌いだった。

こんな最悪な聾学校でも、他の子供たちの親はいつもニコニコしていて心の底から優しいオーラに溢れていた。

そして他の子供達の母親は皆、子供に笑顔を向けて温かく励ましたりしていた。

所が私の母だけは違う。

表面上はニコニコしているけど、心から笑っていない。あるのは凍り付いた妖狐のような鋭く冷たいオーラと目線。

それを私は感じていた。

口からはキィキィ甲高いヒステリックな声での愚痴しかこぼれない。

「どうして失敗するの」「どうしてこうなるの」「いい加減のしなよ」

どんなに頑張っても全て否定される。

しかし第三者に対してはすっごく謙虚で偽物の笑顔で優しいママのフリをしている。

そして他の大人は「レンガちゃんのお母さんって良い人だねぇ」と言ってくる。

それが大嫌いだった。

何、騙されてんのよ。それ、仮面だから……。

………………。

幼少期の私に安息の地は無かった。

私は頑張って頑張って、沢山涙を流して頑張ってきた。

でも子供だからどうしても失敗する。

たった1回の失敗でも罪とされ、親からも先生からも暴力をされ、

私の周りの大人は皆私を暴力する「敵」だった。

更に恐ろしい事に、その頃の私に「逃げたい」という感情がなかったのだ。

この地獄の日々が当たり前の日常として何年も過ごしていたのだから、嫌だけどそれが当たり前の事と認識していたから…私の感覚はマヒしていた。


結果、あの時私の人格は形成されたのだと思う。


生真面目に生きて、誰にも逆らわず、相手の機嫌を伺い、弱音も吐かず(誰にも相談しない)、全ては一人で何でもこなそう。


ここで形成されてしまった人格は後の人生に大きな陰りをもたらす事となった。

あの頃の記憶は私にとって地獄でしかない、

強くトラウマとして忘れたくても忘れられない嫌な記憶として残っている。


◆◆◆  ◆◆◆


今では差別的な意図をなくすために、全国的に「聴覚特別支援学校」と言われているようです。ですが私が行っていた当時は「聾学校」と呼ばれていたので、このまま記載させていただきます。そこに差別の意図はありませんことをご理解頂ければ幸いです。

※※※ここに記載された内容は、私が毒親から逃げた過去を小説化して記載したノンフィクションです。ただし身バレ防止の為に登場人物の名前や特徴・場所等にはフェイクが加えられています。※※※


毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期編1】はこちら…



毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期編2】はこちら…
https://note.com/re_renga/n/ncd955aea65b6



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