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文章でもっとも大事なことは『伝える』ことである

文章でもっとも大切なことは『伝える』ことです。

「今さら何をいっているの?」

と思われたかもしれませんね。

しかし、私たちは日々の生活の中でこれを忘れがちなのです。

僕はライターで独立してから6年が経ちます。その前にもブログ記事を代行したり、自分でブログ記事を作成したりなどの活動もしていました。

独立してからは通常の人の生活の中で文章を書く、おそらく10倍以上の量を毎日書き続けていた時期もあります。

今ではライターの仕事よりも講師の仕事の方が多くなりましたが、なおさら「文章の本質は伝えることである」ということが大事に感じています。

その理由をこれから3つお伝えしています。

ぜひ最後までお読みください。

1.文章はコミュニケーションである

まず一番大事なことが「文章はコミュニケーションである」ということです。
コミュニケーションという大きな括りの中では文章は間違いなく、相手に意思や思考を伝えるための手段です。これは口頭で伝えることと本質は何も変わりません。

例えば手紙で近状を伝えるのか、電話で近状を伝えるのかの違いと言えばわかりやすいでしょうか。

昔の時代は今の時代みたいにインターネット通信などのインフラがなかったので、遠く離れた人に何かを伝えるためには「紙に書いて」渡す必要がありました。

また歴史的に後世になにかを残したり伝えていくためにも石や壁画といったツールと文字を用いて文明が発展したという過去があります。

人類は言語と共に発展してきたといっても過言ではありません。地球上の生物の中でももっとも高度なコミュニケーションを行えるのが人類と言えるでしょう。

その本質に立ち返ると人に何かを伝えたり社会に意義のあるものを残したり、というのはコミュニケーションの一環です。

それを口で話して伝えるか、紙に書いて伝えるかの違いだけなのです。

よく私のもとにも「文章を書くことが苦手です」という方がいますが、そもそもコミュニケーションが一切できません、という人は希でしょう。

文章を書くことが苦手、ということを伝えることができている時点で間違いなく文章も書けます。

シンプルにそれを紙に書くかどうか、だけだからです。

学生時代〜社会人時代を通じて、日本では特に文法にうるさかったり意味にこだわったりする文化が根強いので「国語の点数が悪い=文章が苦手」を思ってしまいがち。

しかし、本来の意味で文章が苦手も何も社会生活を送るにあたって誰もが、意思を伝えたり気持ちを表現したりはできるはずです。

そもそも文章とはコミュニケーション手段です。あまりハードルを高く考える必要はありません。

「伝える」ことが本質なので、文章の良し悪しではない、ということを覚えておいてください。

2.綺麗に整った完璧な文章が求められない理由

文章の本質が「伝える」ことがとすると、極論は完璧な文章じゃなくても良いということになります。

例えば、あなたの目の前に2つの文章があったとします。

一方は、文章も綺麗で誤字脱字もなくて一見完璧な文章です。でも、どこか事務的な感じで読んでも感じるものがない。そんな文章って結構ありますよね。

ではもう一方は、ちょっと誤字脱字もあって、文法的にも変な箇所があるけど、すごい心に響く。感情が思わず動いてしまった、そんな文章をイメージしてください。

この2つを比べてみると、国語のテストの場合なら前者が正解でしょう。しかし、社会で生きていくために必要な文章は間違いなく後者です。

これは疑う余地はありません。

例えば、緊急で動いてほしい案件をビジネスパートナーに依頼したとしましょう。
その際の文章のゴールは、ビジネスパートナーに緊急で協力してもらうことです。
その際に、綺麗で整った文章を時間をかけてしっかり作ったとしても、相手の協力を得られなければ意味がありませんよね。

逆に、書き殴ったような文章でも、その緊急度合いが相手に伝わり、協力を得られたとしたら、目的を果たすことになります。

他のいろんなシーンの文章も同じです。ラブレターも、すごい美文を作成しても相手に気持ちが伝わらずに返事がもらえなければ失敗です。

しかし、誤字脱字が多くて間違いが多くても、気持ちが相手に伝わって感情を揺さぶり、心を動かすことができる文章は成功と言えます。

この通り、文章の目的を達成するために国語の授業で求められるような内容は必要ないのです。

3.難しい文法や細かい指摘は国語の教授に任せればいい

ここまで、文章の目的を達成するために必要なことは「伝わる文章」だということをお伝えしてきました。

なぜ、私がそうまでしてこの内容にこだわるのかというと、日本の教育文化に違和感を感じているからに他なりません。

日本人は世界的に見ても内向的なDNAだということが研究でわかっています。よく言えば、奥ゆかしいとか謙虚という美学と言えますが、裏を返せば引っ込み思案ということです。

これは世界の政治や技術革新を見ても顕著で、日本の企業は世界の中でもう取り返しが付かないくらいに遅れを取っています。

それは義務教育が影響していると考えています。

例えば、シリコンバレーの幼稚園では、子供が親に手紙を書くという授業を行う際に、スペルが間違っていても内容がおかしくても、ただただ認めて褒めるそうです。

その子が伝えようとした行動をとにかく認めて褒めてあげる。
そのため、アメリカではディベートが義務教育になっていて「伝えないと伝わらない」という主張する力を磨くことに徹底しています。

だから少々、文章がおかしかろうが何だろうが、関係ないのです。自分が主張することが正しいのですから。
もし自分の意見が間違っていたら、そこではじめて訂正するという方針。

ノーと言われるまでイエスと主張するといえばよいでしょうか。

逆に日本はどうでしょう。小学校の頃に作文で何かを間違えると先生に怒られたり、親に注意されたりはしませんでしたか?
読書感想文、という名目の元に他人の文章をジャッジすることが正しいという文化が蔓延っているのではないでしょうか。

だから日本人はコミュニケーションに慎重だし、他人の文章や言葉の間違いを探して悦に入る人が多いのだと思います。

間違えていたからといって、それが何なのでしょうか?

文章の本質は清く正しい文法で丁寧に書くことではないはずです。

それは国語の教授であったり、一部の専門家が追求すればいい話です。

日々を生きる私たちは、そんなことよりも大事なことがあります。

それは繰り返しになりますが「伝える」ことです。

これを忘れないでください。

私はライターとして独立した当初、勢いで飛び出したは良いものの、まだ自信がなかったので文章術系の本をとにかく読みまくりました。

その中ではいろいろなことが書かれていたことを記憶しています。実際に突き詰めると日本語は本当にむずかしいです。

そんなある日、知識に縛られて自分が文章を書くことに対してネガティブな反応を持ってしまっていることに気がつきました。

細かいことが気になり過ぎて逆に書けなくなってしまっていたのです。

正に本末転倒です。

「自分の考えを人に伝えたい」という思って活動をはじめたのにこれでは意味がありません。

今では本質に立ち返って「伝える」ことに重きをおいています。

その結果、筆も軽くなりましたし、求める結果も文章で出せるようになりました。

僕はかなり遠回りしましたが、これは本質だと感じています。

まとめ 〜想いを言葉に〜

僕の活動のコンセプトは「想いを言葉に」です。
自分自身が引っ込み思案だったり、思ったことを飲み込んで悔しい経験をしたりしていたので、『自分の想いを世の中に発信する』という意味を込めました。

それは今回にお伝えした内容と核心的には同じです。

今一度、他者からの評価を気にして大事なことを見失っていないかどうか、確かめてみてください。

あなたの伝えたいメッセージは、誰かにジャッジをしてもらうためのものでしょうか。

きっと違うはずです。
ぜひあなたも自分の『想いを言葉に』にして文章という最強のツールを世の中で使い倒しましょう。

参考になりましたら。

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