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My father



今日は父の日だった。

私の父親は、健在である。「あなたの父親は、どんなお父さんですか?」そう聞かれたらいつもこう、答えている。
「武士のような人です。」と。まぁ、俗に言う頑固ジジイみたいなもんだ。武士だけど、ダジャレとかも平気でかましてくるし、つまりは、親父。兎にも角にも、厳格なのである。

それはそうと、我が家では誰も、「父の涙」というものを見たことがない。それは日々、メソメソしてばかりの私なんかと比べると、どれほど心が強いのだろうか?それとも、心が鈍感なのか?泣き虫な私にとって、それは際限なく想像し難いものだ。

だが、聞くところによると。
父は僅か14歳で両親を亡くしたらしい。
中学生の身で、両親がいなくなる経験とはどんなものだったのだろう。その後、祖母に育てられたという、その青春期とは一体どんなものだったのだろう。青年の胸にぽっかりと空いた穴が、父の心に「鈍感」という名の「厳格」を作ったのかもしれない。
私は、そう思う。

そこで「厳格」と辞書で引くと、こう書いてある。

《手加減などせず、厳しい様》

それを読んで、私は思った。
父は、私たち家族に対して厳格だった訳ではナイ。おおよそ「自分」に対して厳格だったのでは?と。自らに対し、遥かに昔からずっと。手加減などせず、厳しいままだったのでは?と。


私がそう思うのには、数々の背景があった。


たとえば
父は、私の見る限り相当の勤勉家であり、幼きながらも感じるほどの、出世コースだった。県庁の星こと、武士こと、お父さん。と言いたいくらい完璧な男だったのだが、その誠実さゆえ「ダメなものは、ダメだ。」と。社会のグレーゾーンに対しても、上司に対しても、取引先に対しても、何も見過ごせない男だったと。立場や地位に関係なく「ダメなものは、ダメです」と。社会に突っかかる物言いに、出世がかなり遅れたと言った。それでもなお自分の心に起きる「不正」は、どうにも許せなかったのだ。自らの心に手加減なし。ただまぁ、上にも立ち向かっていく武将感のおかげで、部下からの評価は群を抜いて高かったと、母は言った。


さらには。
幼き頃から心臓病や不登校、精神疾患と。問題を重ねる我が子たちに対し。厳格である父はいつも心のどこか、「理想の父親像」から遠ざかる現実を悔やんだのだ。「自分のせいだ」と責めていたのかもしれない。彼は一時期、家庭に起きている現実を見ることができず、どこまでも苦しい仕事に飲まれ「鬱病」となった。それでもなお、家族のために仕事を辞めなかったと、母は言った。「あの時が家族の危機だったわ〜、お母さんも更年期だったしね。」と。それは私の記憶に、わずかに残る程度だが、家族の煮詰まった歴史。


そんなこともよく知らず。私にとって父はただの「頭ごなし野郎」だった。高校の進路を相談するときも、就職の相談をするときも。彼氏に会わせたときも、家の購入で相談したときもだ。大して私の意見を聞くこともなく、
「それはダメだ!もっとこうしたらいい!」と強く言った。そのセリフが出たら最後。私がどんなに太刀打ちしようが、それはもうダメだった。勿論、一時はそんな父親に幻滅して、私は実家を捨てた。都内に住んで18歳から若者と言われる期間を全て、父の顔を見ないまま生きた。父の顔をちゃんと見れるようになったのはつい最近のことなんだ。自分が結婚して、親になってから。だから、ようやく今になり、父の優しい瞳を見て思う。

お父さんは私のことを、世界で一番愛している。ずっとずっと、愛してくれていたし、これからも愛してくれるんだと。そう、思うんだ。それだけでもう、育児は成功じゃない?厳格で、武士で、頑固な父はすべて「愛」ゆえに現れた努力の結晶だったのだろう。



これから先、私の願いは一つ。


父が、自分の心に優しくなって、ちゃんと手加減したり、手を抜いても幸せになれること。だ。この世界はいつでも幸せで溢れていることを、私が伝えていこう。そう思う。


いつも有難う。いつまでも元気でいてね。

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