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素晴らしい世界


私には5歳の息子がいる。
名前はレイ。

私はレイとあったかい布団に潜り、互いの手を握りながら。ひっそりと小声で楽しむお喋りの時間がある。それは寝室、電気を消してから眠りにつくまで数分間。1日の終わりのことだ。
部屋は暗く、わずかに見えるのは豆電球に反射して光るレイの瞳の潤い。私とレイの声以外には静かで何も聞こえない田舎の夜。そして握りあう手と反対の手で触れるのは、さらさらとして温度のある、もっちり愛しいレイの頬。
そこで、眠る直前まで「今日を楽しみたい」という姿勢で喋り始める、我が子の無邪気さに、母はいつも関心を覚えるんだ。私は大体その時間帯、疲労と眠気を感じるまま、大あくびをかまして涙を溜める大人だからね。そんなふたりの夜に、レイは決まってこう質問してくる。



「ねぇママ?
ママは今日、何が一番たのしかった?」



そして、
ママが答える前にレイは言うんだ。

「レイはね〜、...」

それからレイは続けて聞いてくる。

「ねぇママ?
ママは今日、つらかったことある?」


そしてまた私が答える前に言うんだ。

「レイはね〜...」

そして続けて彼は言う。

「ママ?
ママは今日びっくりしたことはあった?」
「レイはね〜、目玉親父に口がナイことかな!!どうして喋れるのかねー?」

「?!」

そうこう話している間に彼は満足して後ろにゴロンと寝返りを打ち、「トントンして〜」と言った数秒後にすやすやと寝息をたて眠る。






私は、その小さな背中をトントンと叩き続けながら、ふと思った。

眠る前。私はレイのように今日のことなど思い出さない。今日起きた出来事なんかよりもブルーライトで冷たく顔を照らし、脳を急がせていくんだ。眠る直前まで、顔も知らない誰かの写真や動画を見て情報を貪ったりして、インスタグラマーのくだらない踊りや、Twitterの政治情報にため息をついたりして。戦争や災害のニュース、殺人や虐待、コンサルやマスコミ、貧困に炎上。そんな世界に震え、明日に怯えて今日を終えるんだ。スマホの中に何か生きるヒントがあるようで、何も希望がないと分かった上で、まるで自分の体の一部かのようにスマホを枕元に置いて。シャットダウンと共に真っ暗な気持ちで眠る。私は息子と違って、かけがえのない今日よりも、スマホの中身を大事に、見つめていた気がする。と。

そんなだからきっと死ぬ時も、今日のことなど絶対に忘れてしまって。大切な瞬間を思い出せないまま眠るのだろう。なんだかそれって、寂しいし悲しく、勿体無いなぁ。ってね。


きっと。人の記憶ってものすごく呆気ないから、どう頑張ってもこの愛しい日常の大半を忘れてしまうんだけど。

けど、今日の私はどんな空を見上げて誰を愛し、大切な者と何を話したのか。何をもらって、何を与えられたのか。可愛い息子のほっぺとか、友人と交わした笑い声とか、その後に溢れた涙とか、何も言わないお母さんとのハグとか、生徒さんとの呼吸の重なり。心がギュッと詰まり愛しくて何度も撫でたくなった愛犬とか、季節の香りを探す朝の光とか、夕暮れのグラデーションと爪の先みたいに細い繊細な三日月とか。

自分は今日という日に、何へ感謝し、何に感動していたのか。噛み締めた方が生きている。しあわせに生きていくことができる。そう思ったんだ。

何もない日がどれほど尊いのか。

今夜は眠る前、スマホを手放し沈黙の中で考える。それに私はすぐに忘れてしまうから、長めに目を瞑ることにする。それでもやっぱりまた「当たり前」という奇跡が起きていることを忘れて、私は明日も。なんでもないことでクヨクヨ悩んだりしちゃうんだろう。なんでもないことに、深くため息をついたりするのだろう。


息子との毎晩の会話が私に、生きる歓びを思い出させてくれる。今日は最高のいちにちだったと、いつか忘れてしまっても。
何度でも感動して、何度でも生きればいい。

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