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走れ!人生に追いつかれる前に。




私には5個上の兄がいる。
兄は生まれつき心臓病だった。心臓に穴が空いたまま生まれて、間もなくその小さな身体で大手術を受けたんだ。だから兄の初めての食事は「離乳食」ではなく「お薬」だったと母は言った。それに心臓以外にも。生まれてすぐの写真を見ると右頬には大きなコブが見えていたり、子供の頃の喘息はひどかったと話を聞く。「今思えば、発達の遅れもあったのかもね。」と母は言った。あの頃は現代と違って身近に情報のないご近所社会だ。サラリーマンとして働く真面目な父を支えながら、たったひとりで子を育てる母親はどれだけ心細かったのだろう。親になった今の私。胸がギュッとなる。

ただ。私が覚えているあの頃の「お兄ちゃん」はいつも元気だったのだ。で、不登校だった。というか彼は義務教育中、基本的に不登校だったと思う。もはやそれはズル休みのし放題に見えた。悪びれた様子がなかった。だから私からしたらそれが当たり前で、兄の不登校は悲観するものじゃなかったんだけど。よくよく考えてみれば彼は不登校のくせに、友達が多かった。下校の時間になると彼の友達がぞろぞろと私の家にやって来て、マリオカートや、スマッシュブラザーズで遊んだ。遊戯王や、ボンバーマンもやっていて、「私にも貸して〜」とお兄ちゃんにお願いすると、腹からビー玉がこぼれてしまう、「壊れたボンバーマン」だけ貸してくれた。意地悪な普通のお兄ちゃんだった。私はそんなお兄ちゃんの男友達達に混ざって、テレビゲームを観戦することが好きだったし、お兄ちゃん以外は、みんな優しくて好きだった。その中の一人、幼馴染の「ひろくん」は今でも親戚の叔父ちゃんみたい。兄とも仲良くしてる。

もう一つ覚えているのは、お兄ちゃんは漫画家になりたくて毎日絵を描いていたこと。ジャポニカ学習帳の自由帳に、何ページも書き綴った漫画が実家の納戸に残っている。何冊もある。その内容はとても面白いイラストで、ストーリーも笑えて。私は彼の作品が出来上がるたびいつも、楽しみでならなかった。こんな絵が描けるなんて。と幼いながらも、感動してお兄ちゃんを誇らしく思った。それは今も変わらない。

そんな兄の心臓病が再発してしまったのは、兄が小学校6年生の時だ。彼は再手術のため、小学校最後の夏休みを丸々入院する運びとなった。群馬から遥か遠くの、とても大きな病院だった。付き添う母に合わせ、幼かった私はその夏、祖母の家に預けられることとなった。

私は普段、遠方に住む祖母と長く一緒に暮らせることが不思議で嬉しかった。そもそも幼かった私には手術のことを知らせていなかったんだ。きっと母と祖母は、私が不安にならないように。寂しくならないように。たくさんの優しい嘘をくれていたのだろう。大人になってついこないだ、リビングに腰掛け世間話をしていた時、話が繋がった。大人になって、あの夏がそういうことだったことを知った。だけどそんな私でも、あの夏の、あるワンシーンだけが脳裏に焼きついていたんだ。

それはいつもなら祖母とふたり、歩いてスーパーに行く午前の時間だった。祖母が私を狭い狭い自分の部屋に呼び出し、ベッドに隣同士で腰をかけてから言った。
「まりちゃん、神様にお願いしましょう。」それから祖母は震える両手で、私たち家族の写真を握って。何度も何度も掠れる声で言った。

「神様。お兄ちゃんをどうか。どうか、お願いします。」

瞳をぎゅっと閉じ、何度も呟いた。幼かった私はそれがどういう意味なのかひとつも分からなかった。けどあのシーンだけは今も鮮明に覚えているんだ。祖母は今も、兄のことを「神様の子だ。」って言う。

それから無事にお兄ちゃんは手術を終えて、過酷なリハビリに入った。もともと痩せていた体型から、15キロ痩せてしまい退院したと言う。お兄ちゃんはそれからも、ずっとずっと不登校であった。両親はいつもいつも、お兄ちゃんの心配をしていた。いつもいつも、お兄ちゃんのことで揉めていた。それでお兄ちゃんはいつもいつも、部屋から出てこなかった。そして
私はいつもいつも、元気でいなければいけなかった。私はいつもいつも笑顔でいないといけなかった。誰に何かを言われたわけでもないけど。私の身体がそう言っていた。だから「家族の希望」という役を、幼い私が自然に担っていた。だからそうやって私の笑顔には、人を癒す力がついた。だから今もなお、私に染み付いているこの笑顔はきっと、兄のおこぼれ。今は兄に、たくさん感謝してる。


それから少し大人になった時。兄は大きな精神疾患が見つかり、正式に引きこもりとなった。だがなんと当時、私自身も上京中にひどい鬱状態へと入ったのだ。あの時、私と兄には同じ病名がついた。血が繋がっている証拠のようにも思えた。お母さんは、二人の子供が同時に精神疾患を抱えて今にも自殺しそうだったあの時。どんな気持ちだった?
胸がぎゅっとなる。


その頃、私は八王子のアパートで真っ暗な森の中にいた。本当に死んじゃうくらい毎日、泣いていた。そこで泣いていたら誰かが迎えにきてくれる気がしたからだよ。でもいつも誰も迎えに来ないまま、朝だけが来た。朝を恨んだ。でもある日、迎えにきてくれた人がいたんだ。それはここにいるはずのない「お兄ちゃん」だった。引きこもりだったはずの兄が、私を心配して駆けつけてくれたのだ。闘病中の兄のその行動は奇跡だった。わたしには嬉しすぎて信じられなかった。

私たちはその日、普通のご飯を食べて、順番にシャワーを浴びた。何を話したか、何を食べたのかは病気のせいでもう、覚えてないけど。その夜のことは確かにある。寝る時間になった時、兄と20年ぶりに添い寝をしたんだ。睡眠薬を飲んでも飲んでも全く眠れなかった私が、その夜だけは安心という温もりを思い出して。生きてるだけでいい気がして。朝までよく眠れたことを覚えている。その一件で、私にとって兄は、ヒーローになった。
味方ってこと。


あれから私たちは大人になった。
私の心は治り、私は結婚して母になった。
兄は今も病気と戦っている。死ぬまで戦い続ける。そんな彼はいま「表現」という戦い方を身に付けて、強く生きている。作品を世に発信しては、自分は生きているぞ。と大きな声で叫んでいる。誰よりも噛み締めて「今日」を続けている。そんな彼は言うんだ。



走れ!人生に追いつかれる前に。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


あとがき。

彼の作品は、彼の人生でしか現れない表現が詰まっています。音や、熱や、愛がある言葉。
それは綺麗事とは遠いどこかからきた。きっと、悲しかったこと。怖かったこと。幸せよりも、苦しみを。たくさんのことを背負ってきたからこそ滲み出る、夢や現実なのだと。教えてくれる言葉達です。ファンタジーとリアルな彼が織りなす、作品達がどうか。
あなたの胸にも届きますように。







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