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65歳の父が始めたInstagramから思うこと





近頃、65歳の父がInstagramを始めた。
趣味の家庭菜園や、山登り、野鳥観察など。暮らしに収めた写真たちを披露している。
彼は夢中なのだ。

初めてすぐは「どうやって投稿するんだ?」とか「プロフィールを書いてくれ!」とか言ってきたのに。最近では「リールを作ってみた♪」とか言って、音楽付きの動画まで作成している。フォロワーとの交流にも果敢にチャレンジして(先日はいきなり知らない人の投稿に、タメ口でコメントしていて笑った)変な人に引っかかりそうで危なっかしい。笑

まぁ、分からないことはまとめて質問してくるから、その度に私がつきっきりで教えてあげる。その時間も楽しいんだ。そしてふと、
能天気な父の趣味アカウントを見ていると
心の奥の方からあったかく、
豊かな気分になる私がいた。

「そういえば、。本来のInstagramってこんな感じだったよな。」と懐かしく思った。



今や、このInstagramという箱には
「発信者」が飽和状態となり、人々はみんなクリエイターとして活躍したがっている。自分の発信からお客さんの興味争奪戦をして。あれこれ技術や心理的ノウハウを活用しては、自分を魅力的に見せて、人の気を引くために必死。
知恵合戦なのだ。

「フォロワーを集めるコツ」「痩せるためには」「これだけやれば美肌」「絶対買っておくべき◯選」「いますぐやってみて!」「おしゃれな加工の仕方」「〇〇行ってみた」「人気のカフェ◯選」「死ぬほど学びになった本〇〇」「お金が逃げる貧乏習慣」「すぐキレる子への声がけ、間違ってない?」検索窓にずらっと並ぶ画面だけでもこれだけのタイトルが並んでいた。




そういうのもう。脳みそ、疲れちゃうよな。
煽りや、焦りや、誰かの正解を見せつけられてばかり。私の心が「くだらない」って言いたくなったんだ。

もうこの時代、小手先での繋がりは充分な気がした。消費者は飽きた。発信者だって飽きている。集客や、認知や、人気や、知恵なんかで生きる方法を考えることは勿論、とても大切なことかもしれないけど。それよりももっともっと大事なことってある。人と人が繋がってこその「価値」がある。本来のInstagramにはそういう価値があったんじゃないだろうか。
そう思ったんだ。

話は戻るけど。
わたしの父は今、コウノトリの投稿をあげては
野鳥仲間のフォロワーが増えた!と喜び、日々楽しく交流している。そこに金銭のやり取りもなければ、売り上げも、フォロワー数争いもないよ。それがとても良いよね。私も仕事のツールとしてInstagramを使用しているんだけど。そういうのはもう、いいかな。と思ってしまった。私とあなたが繋がって。いつか出会うその日まで、楽しみに繋がっておく為のツールとして。私のことを見ていてください。あなたのことも沢山教えてね。って
今夜はそんな感じです。

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