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小さな小さな愛着トラウマを発見する楽しみ

週末の昼下がりの小さな回想

金曜日からの雨で、少しまた寒くなってましたね。
そんな雨上がりの週末、
実家の庭の作業を頼まれたので、
力仕事をお手伝いしに行きました。

深い穴を掘って、おっきな道具を埋め込む作業だったのですが、
土が粘土質でどろどろになっていて、作業は難航。
2時間かけて終わった頃には、
靴もズボンも、泥だらけになりました。

ドロドロの粘土

その時、様子を見に来た母が、何気なく、
「玄関に泥がつくから、靴を洗ってから入ってね」
と、声をかけて去って行ったのですよ。

その時、僕は、なんか、ぽわん、、
としたことに気がついたのです。
…いや、ぐるるるん、、、かな、
まぁ、どっちでもいいのですが(笑)

その瞬間、母の言葉が引き金となって、
僕は、ある古い記憶にアクセスしたのだと思います。

僕は、なんだか、泥のこびりついた靴を、
すごく洗わないといけないような衝動と、
うっすらと悲しいような感覚があることに、
気が付きました。

もう覚えてはいないけれど、脳のどっかに格納されていた、
記憶ネットワークの細い網の目に、軽く引っかかったようでした。

いくつの頃だか、場面も状況も、はっきりしないのですが、
確かに、幼少のころ、同じような体験をしたのです。

小さな頃は、橿原市のいなかの住宅街に住んでいました。
田んぼや、どぶ川でどろんこになって、
泥だんごを作って、虫とか魚を捕まえて遊んだものです。

遊びに満足して、どろんこまみれの格好で、
はしゃいで家に入ろうとした、その瞬間、
母はこう言ったのかもしれません。

「ギャーー!! だめだめ!
 ちゃんと洗ってから家に上がってよ!」

もし、それが、小さな子にとって、
生まれて初めての体験だったと、
想像してみましょう。

そんな、聞いたこともない理由で、
いきなり怒鳴られたら、、

「えっ…まぁじかよ~~!

マジですかーー?!

って、目玉が飛び出すくらい、
びっくりするに違いありません(笑)

そして、せっかく楽しく無邪気に遊んでいただけなのに、
なんだか悪いことをしてたみたいに、思うでしょう。

そして、なんか、ボクは、汚れてるんだ、、
家の中に入れてもらえないような、汚い子なんだ、、、
と思ったのかもしれません。

もしかしたら、もう家に入れてもらえないのかも、、と、
泣きながら、家の外の冷たい洗い場で、延々と、
手足と靴の汚れを、なかなか上手には洗えずに、
家に入れない不安と絶望の時間を過ごしたのかもしれません。

確かに、そんな庭先の光景があったのです。

庭の作業を終わって、みんなが家で待っているのに、
僕はずっと、なかなか落ちない靴の底にからみついた粘土ドロを、
洗い場で執拗に流しながら、そんな回想にふけっていたのでした。

靴のドロを流しているところ

愛着トラウマとは

こころに刺さったトゲが、こんな風に、
何かのスイッチを押された拍子に、再体験されることを、
フラッシュバックと言います。

それは言葉で語れる陳述性記憶として残っていなくても、
非陳述性記憶、大脳辺縁系の条件反射として記録され、

思考を使っても意識できない、潜在プログラムとして、
僕たちの日常生活の選択や行動を左右しているわけです。

特に、愛着が形成される幼少期の傷つき体験は、
愛着トラウマと言います。
三つ子の魂百まで、というように、
生涯わたって、行動選択パターンに影響を与えます。

こんなことを言ったら、なんか冷たくされるんじゃないか、
こんな態度は、嫌われるんじゃないか、と思って、
自動反応でなんかやってしまうこと、ありませんか。

「きれいにしていないと、ママに見放されるんじゃないか…」
そんな無意識の感覚で、なかなか家に入れなかったり。

例えば、早く帰らなきゃと、わかっているのに、
なぜか、いつも帰るのが遅くなるお父さんの、
繰り返される行動習慣に、なっていくのかもしれません。

愛着の傷つきが起こる瞬間

子どものこころの傷の話をすると、
過剰な罪悪感で、ギューとなってしまうママさんがいます。

気がついてあげれなかった、、
もっとわかってあげたらよかった、、と。

これ以上傷つけないようにと、
過保護に逆振りしたり、
腫れ物に触るようにしたりして、、、
これでは、逆に溝が深まってしまいますね…(´・ω・`)

この痛みは、ママさん自身の幼少期の愛着のトゲです。
お子さんの姿がトリガーとなって、
ささっているトゲが、うずいているのだと思います。
ママさん自身も、癒される必要があります。

ここで愛着トラウマと言っても、
愛情が足りなかった、と罪悪感で自分を責めたり、
毒親のせいだ! と恨みや復讐に走ったり、とか、
そんな物騒な話しではありませんので、安心して下さい(笑)

愛情の傷つきというのは、成長する上で誰もが避けて通れないもので、
むしろ傷を体験し、その体験を再構成するからこそ、学びが生まれるものだと思います。傷をなくしたら、成長のチャンスもなくなりますね。
(もちろん災害や犯罪を肯定しているわけではないですが)

ちなみに、僕だって、大人になった今なら、
どろんこまみれの幼児が、きれいにしている部屋とか車に、
うぉーっと、すごい勢いで侵略してきたら、

ちょっと待てー!

「ちょっと待ったぁぁあーーー!!」
と、半ギレになって、叫ぶと思います(笑)

こんな顔で大きな声を出したら、子どもにショックを与えることは、避けられないでしょう(笑)

「危ないでしょ!」「ちゃんとしなさい!」「あっちいってなさい」
「早くしなさい!」「静かにしなさい!」と、
子どもの安全を守るため、環境を守るために、
とっさに対応しないといけないのは必然です。

それが、思いもよらず子どものこころには、
ひどく恐ろしく怒鳴られた体験となり、
親の愛が絶たれたと感じるに値する、
生死に関わるほどの、絶望的なエピソード記憶になることもあるでしょう。

でも、それは、まだ状況のわからない子どもだったから、であって、
悪い子だからでも、ヒドイ親だからでも、ないわけです。

「お前はけがれていて、家にも入れない子だ」、
なんて、誰も言っていないのですが、
子どもの持っている少ない経験値からは、
そう思うしかなかったのです。

このように、愛着の傷つきというのは、
子どもにとっても、大人にとっても、

ただ大人と子どもでの、視点の違いで、
お互いの状況を把握できずに、
小さな小さな誤解が起源となっている場合も、
含まれるわけですね。

でも、そんな小さな傷が、
化膿したり、分厚いかさぶたになったりして、
大人になって、重大な問題や、
病気の核となる記憶となってしまうこともあるわけです。

幼少体験の記憶の再構成

でも、普通はそれで大丈夫なのです。
子どもは成長、発達していく中で、
親の気持ちや意図を理解したり、
別の人間関係でも、体験を増やしていき、
脳は記憶を再構成して、学習していく力があります。

その愛情の傷つきは、愛がないからじゃなかったんだんなぁ、
むしろ愛があったからだったんだなぁ、

と、いつか、大人になって、逆の立場で体験的に理解し、
記憶は再処理され、こころの傷は自然に癒えていくのでしょう。

途中、反抗期を経るかもしれませんが、
親の心子知らず、子の心親知らずなのです。
それで、普通だったのです。

それも含めて、逆境からの学びの体験として、
または、懐かしい笑い話として、
語れるような、思い出記憶となるように、
感情と記憶を情報処理する機能が、
脳には自然に備わっているわけです。

実際に危険な環境がある場合は、もちろん話は別です。
ただ、そうではない場合でも、
生まれつき高い感受性を持っている子だったり、
認知の再構成を行う脳の部分が脆弱だったり、
再構成を行うだけの対人体験に恵まれなかったり、
などの諸事情があると、

脳が情報処理しきれなかった記憶が、
トラウマ記憶、こころの傷となってしまうのだと思います。

そうなると、体質に応じて、さまざまなタイプの
こころのトラブル、からだの病気として現れてくるでしょう。

小児期の逆境的体験が、脳に与える影響や、がんや成人病リスク、
寿命へ影響することは、大規模な調査により、
医学的にもはっきりとした強いエビデンスで証明されています。

診察室でのトラウマ臨床

ところが逆に、診察室で幼少期のことを聞くと、
うちは愛情のある家庭で、恵まれて育ったと思います、
と言われる場合も、よくあります。

でもよく聞くと、お互いに想い合う気持ちが噛み合わず、
小さな誤解から傷ついていることもあります。

というか、傷ついていないわけが、ないのです。
むしろ、自分の傷つきを認めることは悪い子だと思って、
傷に蓋をして、こじれているような状況を、
より想定しないといけないのかもしれません。

そんなこともあって、幼少体験は、大人になった今、
診察室の短い時間で語られることは、まずありません。

しかし多くは、根っことなる起源の幼少体験が、現実への体験様式を、極度に否定的なものにしているのではないかと思います。

自分の体質や特性を、どのように理解するか、
自分の身体の症状(サイン)をどのように捉えるか、
人間関係をどのように体験するか、
世界をどのようなものと認知するか、

現在の悩みへの対処や、症状への治療とは、別の次元で、
脳の認識プログラムとして、常時働いています。

本質的なところはこれら古い記憶の再処理にあり、極論を言えば、うつとか、パニックとか、摂食障害とか、病名や症状に関係ありません。

診察室の中でも、その本質に辿り着く瞬間があります。
その場合、大きく治療は展開していきます。

でも、そんな変化が起こった時は、次に診察室に来られた時は、
なんか知らんけど、いい感じにしています、と、
あっさりして、喉元すぎれば暑さを忘れる、感じなんですね。

体験する世界全体が変わったのだと思います。
本質的な回復は、そのような形で訪れるようです。

支援者としては、あの苦労はなんだったんだ、、
ちょっと肩透かしを食らったような、
でも楽になったなら、よかったねぇ、と言う感じに見えますよ。

握りしめているその手に気がつく

こんな風に聞いてみることもありますね、

からだを壊してまで、そこまで極端に「頑張ってやらなきゃいけない」って、、そう思われるのには、なにか一番最初のきっかけとなる出来事とかって、あるんですか? 子どもの頃とかで?

あ!ありますね、と、ぱっと、エピソード記憶を話してくれる人もいるし、
うーん、と、漠然とした幼少体験のイメージだけ残っている人もいます。
いや!まったくないです!と、なんかこわばってしまう人もいます。

その病巣は、完全に自分の一部として癒着している感じで、
自分と一体になっているように思えるから、なかなか難しい。

でもそれはどこか、外から入ってきた考えなのです。
赤ちゃんの時には、そんな考えは、なかったはずなのだから。

トラウマ臨床は、その信念を作った記憶にテコ入れして、
揺さぶりをかけて、切り離して、根っこを引き抜くイメージです。
いや、神経の根っこを、ほんとに引き抜くわけではないですよ(笑)

はたから見ると、いかにも苦しそうな思考回路でも、
いまはまだ、それを大事に持っていたい、と、ハッキリ言う人もいます。
こころが壊れないように、頑なにその信念や、
行動パターンで、こころの内側を守っていかなければ、
こころが危うい状況の場合もあるからです。

いや、むしろこっちの方が、普通かもしれません。
僕たちは、自我防衛の塊みたいなものです。

でも、もう、要らなくなっているのに、
ぎゅうぎゅうと縛り付けて自分を苦しめている考えを、
ただ無意識の習慣で、握りしめてたなと気づく瞬間もあります。

その場合は、ナゾに力いっぱい握りしめる必要は、
もう、なくなっているのではないでしょうか。

小さな自分の勘違いを見つける楽しみ

患者さんの場合は、その核となる記憶が、
からだの症状や、やめられない行動パターン、
繰り返し再現される人間関係の悩み、とかになって、

健康を害するまでになっているわけだから、
なかなか悠長なことを、言っておれませんが。

でも、確かなことは、それは過去の出来事であり、
いまは、もう小さな子どもではないということです。

本来は、忘れていた、小さな自分に気がついてあげることは、
日々の生活のなかの、小さな喜びだと思うのです。

人は一生をかけて、小さな勘違いから開放されて、
また本来のあるがままの姿に戻っていく、
そんな旅路を楽しんでいるようですね。

さて、今日はいい天気になったので、
泥の付いた靴を、洗うことにしましょう(^o^)


お気に入りのmont-bellシューズ☆




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