愚者の動かす社会

馬鹿の考え、考えない方がマシ。

愚かな人々がする事に客観的な価値があるかどうかの話をしよう。

そもそも客観的な価値とは何かというと、これは客観的に見つけやすい価値でしかない。

当然芸術性や主観性は含まない。

例えば労働における客観的な価値とは、例えば生産性であったり、あるいは逆に”いかにサボるか”というものであったりする。これはベクトルによる。

さて、愚かな人々がする事に客観的な価値があるか、という問いだが――。

無い、無い。はっきり言って無い。客観的という言葉が適切でなければ、多数派にとって良くない。歴史的に良くない。といったところか。

歴史と言うのはある種永遠の法廷のようなもので、どんなに情報を隠そうとも必ず未来の人々が見つける。すべてではなくとも。

現に、あまりよろしくない歴史を持った国を挙げろと言われれば、ある程度教養がある者ならばすぐに数十個言い出す事ができるだろう。そこに客観性があるかどうかではなく、その者の中ではそうなっているのだ。これが重要である。

つまり、大して知らない国やその国の人々を”歴史”だけで判断すると言う事を人はするのだ。自己防衛の一種なのだろうか。いずれにせよ、人々はそうする。

場合によっては学術的なものではなく、噂話や偏見などでも人々は判断をする。あるいは妄想や幻想もか。

基本的によろしくない歴史の言うのは大抵、愚かな者達によって引き起こされてきた。株価の”暴”落は結局の所ほとんどの原因がパニックによるものだし。感染症の拡大も正しい情報を見つける事のできない愚か者共によって引き起こされてきたし。医療における失敗というのもまぁ、トライアル&エラーの側面はありつつも”血を抜けばなんでも治る”と思われていた時代もあったりで・・・。

賢い者が評価される訳ではないが、基本的に彼らにとっての後世や、あるいは存命中に評価された人物には賢いとされる人達が多い。

しかしながら、世の中の多数派は愚か者であり、だからこそ相対的に賢人を賢人たらしめるのである。

以上が愚者の行動は歴史的に価値が無いという解説だ。

そして私はこうも言った。

さて、愚かな人々がする事に客観的な価値があるか、という問いだが――。
無い、無い。はっきり言って無い。客観的という言葉が適切でなければ、多数派にとって良くない。歴史的に良くない。といったところか。

そう。多数派にとって良くない。

世の中の多数派は愚か者である。賢い者が多数派ならばそれは賢い者ではなく平均でしかないだろう・・・。

この”多数派”とは人口割合における多数派という意味である。

なんとも可笑しな事に、愚民共というのは自らの手で自らの首を絞め続けているのだ。日々。

しかし、どうしようもない。言ってもわからない人達なのだから。

インターネットは事情報の収集において強力な武器となった。にも拘わらずこのような現状とは・・・・・・。

愚者のもたらすものは絶望や死だ。

愚かだから、ブラック企業で働く。ブラック企業で働くから、ブラック企業が減らない。ブラック企業(相対的なものではなく、良好な労働環境がない会社)で働く者が多いから、違和感を感じない。政策に影響しない。それぞれ消耗するだけ。

経営者と、労働者。どちらが多いんだろう。

労働者が団結して会社に対し主張を始めたら、どのように日本は変わるだろう?

愚者は愚者だから他国の様子も知らないし歴史も知らないし簡単な法律も知らない。

愚者同士消耗し合うなら、勝手にやらせておこう。どうせ多数派だし。

・・・・人々が愚かなままでは希望はないよね。


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