アート教育とは何かを考える②

前回の記事で、アート教育とは何かを考えました。

簡潔にまとめると、

アートを表現であると定義した上で、「表現は、認識と表裏一体である」ことを認識し、アート教育を「世界を自分なりの見方で切り取り、表現する練習」

と捉えました。
今回はその続きです。

アート教育は役に立つのか?

アート教育をやっている人が、その外野の人から「役に立つのか?」という疑問をぶつけられた時、「アート思考はビジネス界で注目されている!」とか「これからはイノベーションが重要だからクリエイティビティを育む必要がある!」とか、そういった主張をしがちです。

このやりとりの背後には、「役に立つ=経済的な期待値が高い」という命題が隠れています。

質問者の「役に立つのか」が意図するところは、多くの場合「良い企業に就職するために良い大学に入り、良い大学に入るために良い高校に入り、勉強している中で、そこに貢献する何かがあるんですか?」という内容であり、

それに対する回答が意図するところは、「良い学校に入るとかそういうことではなくて、社会に出てから稼ぐのに大事な能力なんですよ」(=回答者にとっての役に立つ)ということだったりします。

この双方の「役に立つ」に対して私はもやっとします。間違ってはいませんが本質を突いていません。それは上記議論の目的地が「経済的豊かさ」であることに起因しています。

そもそも教育が「役に立つ」とはどういうことなのでしょうか?

突き詰めるれば「幸せになること」です。もちろん経済的に困らないことは重要なことですが、それは単に幸せを構成する土台の1要素です。アート教育に限らず、何かが「役に立つのか」を考える時は、「それがどれだけ幸せに貢献するのか?」という命題に置き換える必要があります。

前置きが長くなりましたが、アート教育は、それを受けた人の幸せにどう貢献するのでしょうか。

アート教育とは「世界を自分なりの見方で切り取り、表現する練習」であると述べました。

これは、世界に対して自分自身を相対化することです。「私は世界をこのように見ている」と表明することは、必然的に世界と自分とを分けて認識することになります。

そして同時に、自分以外の人の世界の見方、切り取り方、表現の仕方があることを理解します。

自分は他の人と違うということ。同じものを見ているようでも、見え方や受け取り方は違うということ。「違う」ことは良い・悪いなどの価値判断と関係ないものであること。

つまりアート教育は、「自分自身を見失わずに生きること」「他者を理解する姿勢」を学ぶことで、教育を受けた人の幸せに貢献します。

自分と他者が違うことを認識し、その違いをリスペクトする気持ちを持つこと。それは、例えば親や身近な人などの他者の期待に応えようとしすぎて辛くなったり、皆と違う自分の特徴を気にする気持ちを和らげ、自分がどんな人間で、どうありたいかを、自ら考えられるようになる強力な助けになります。

こういう授業があったら良い

上記で書いたアート教育の価値は、それをそのまま伝えるという性質のものではなく、メタメッセージとして伝わるべきものです。体育で、泳ぐ時はこういう風に身体を動かせば溺れません、と教えるわけではなく、実際にやってみながら上達するのと似ていると思います。

まとまった期間のカリキュラムの中で、様々な表現方法に触れられるのが良いです。視覚に訴える表現か、それとも聴覚なのか。身体を使って表現するのか、道具を使うのか。

世の中にある数多の表現は、それぞれ独自の特徴や表現技法を持っています。それを実際にやりながら学ぶことで、自分自身の世界の見方、切り取り方、表現の仕方が広がっていくのが望ましいです。

自分の作品を作ってみて、それが他者の目に触れられる経験も良いと思います。勇気が要ることですが、表現は見る人がいて成り立つものですし、表現の仕方は練習しながら上達していくものだからです。同時に、自分が他の人の作品を見る(聴く)ことによって、また世界の見方が広がっていったり、他者を理解する練習にもなります。

技術の習得は主目的ではないですが、特に好きな表現や得意な分野を発見して、プロになるかは別としても、趣味として人生の友になるような出会いがあれば素敵だなと思います。

最後に

教育というと、どうしても大学受験に役立つとか、目に見えやすい成果を追ってしまうところがあります。

でも、自分で自分を導けることや、他者と良好な関係を築けることは、いついかなる時でも自分を助ける力になってくれます。そういう力を伸ばすための練習は誰にとっても重要なのに意外となくて、アート教育はその一つの強力な手段ではないかなと思います。

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