「渋谷系」とは何だったのか? 〜都市論と現代POPS史から読み解く〜 part.3
4「アングラ文化」を中心とした若者たちの集いの場 ~1960年代新宿~
ここまで吉見(1987)の盛り場論を元に戦前における盛り場の変遷と、東京においての音楽文化の誕生について述べてきたが、この節では1960年代の新宿に焦点をあて盛り場と音楽文化を同時並行的に論じていく。
新宿は元禄11年に甲州街道の宿駅が設けられて以降、江戸4宿の一つとして江戸時代から発展をしてきた。戦後になると、新宿駅前付近の三光町付近(現在のゴールデン街)あたりにはたくさんの娼家が多く立ち並ぶようになる。また昭和25年あたりまで、都内でも最大の闇市が行われており、この二つが歌舞伎町の誕生に大きな影響を与えた。
歌舞伎町の発展に大きく尽力したのは鈴木喜兵衛という人物である。彼は、道義的繁華街の建設をする計画を建て、スケートリンク・コマ劇場など興行施設を歌舞伎町に次々と誕生させた。隣接した三光町には「青線」と呼ばれる売春地帯を形成していたが、売春防止法が昭和30年に制定されると新宿の性風俗が歌舞伎町に進出し産業化していった。こうした売春婦と露天商の街として出発した新宿が、「新宿的なるもの」の核心となっていく。
1960年になると新宿は左翼の学生・演劇青年・音楽家・フーテン等々を集め「アングラ文化」の拠点としての性格を持ち始めるようになる。東口駅前の通称グリーンハウスや凮月堂ではフーテンが根城とし、西口のフォークゲリラやアングラ演劇、そうした政治的・文化的・風俗的なすべてのものが呑み込まれ異彩を放つ都市となった。
さらにこの新宿という街はマスコミが尖端的に風俗の街として演出し馴化しようとしても、それを崩してしまうほどのエネルギーを持っていた。東口に店を構えていた新宿風月堂には横尾忠則・長澤節・寺山修司・唐十郎など作家や文化人が集まっていたという。
また紀伊国屋書店の創業者、田辺茂一は新宿の若者文化の担い手たちを積極的に支援していった。当時の若者の間では紀伊国屋書店で本を買って映画を見るのが憧れとなっており、ATGの映画館「アートシアター新宿文化」もあった。そこでは大島渚・篠田正浩など日本のヌーベルバーグと呼ばれた作家の作品を沢山上映していたという。またその地下には小劇場「アンダーグラウンド蠍座」がオープンして実験的な演劇が上演された。
特に唐十郎が立ち上げた「状況劇場」はアングラ文化の代表格となった。唐十郎演劇の最大の特徴として宮沢章夫は著書で「かぶく」ことを挙げている。彼は歌舞伎を現代演劇として表現するという近代的な芸能を導入し、前近代的な演劇への批評的な視点を持っていた。
そうした中で1960年代の「新宿的なるもの」の特徴として吉見は1.強烈な消化能力2.先取り的性格3.変幻自在さ4.共同性の交感の4つを挙げている。この4つは「浅草的なるもの」と多くの点で共通性を持っており、「新宿的なるもの」は「浅草的なるもの」のより現代的な表れとしてみることができると述べる。
一方音楽文化に焦点を当ててみると1960年代の新宿はジャズ喫茶の全盛期であった。1960年代初頭はモダン・ジャズのブームが巻き起こった時代であり、1961年にオープンしたDIGは人気店となった。また、新宿ピットインでは渡辺貞夫・日野皓正などが演奏を行い、長い間日本のジャズシーンを牽引する場所となった。
ディスコ「新宿ジ・アザー」がオープンしたのも1960年代であり、牧村憲一は著書「渋谷音楽図鑑」にてジャズを聴きながら踊れる場所の誕生が後のディスコブームに繋がったと述べる。
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