【文芸評論】『送り火』について 「役割」と暴力の色彩(革命及びテロリズム)

高橋弘希氏の『送り火』は近年の芥川賞受賞作の中でも傑出した作品である。

まず、文章が極めて巧みであり、作者自身も「日常のスケッチの中から〝送り火〟は生まれた。」と語っているところであるが、全編を通して、廃校が決まった中学校を中心に、山奥の田舎町の風景を正確なタッチで捉えている。受賞者インタビューの中で、聞き手が「高橋さんの描写や語彙がクラシックな文芸小説を彷彿とさせる」と述べている通り、この作品中にはおよそ日常会話では使用されない語彙が頻出する。それでいて、近年の作家にしばしばみられるような、あえて漢語を多用して、厳かな雰囲気を作っていくというようなテクニックを使用しているわけではない。

『クラシックな文芸小説』的な語彙を多く使用している割には、あえて重厚な文章を作っていこうという意図は感じられず、そのような小説にありがちな読み難さもない。差し詰め彼が先ほどの聞き手の発言にこたえる形で述べている「描写や語彙については、自分ではそんなに意識してないです」というのが本音なのであろう。彼の『デッサン』という表現を借りれば、なんらかのテクニックを弄するわけでなく、自分が書きたいものを正確に描写することの出来る、デッサンの達人というわけだ。

文章技巧については、選評でもほぼ全ての選者が指摘していることであるから、私の主観的な感覚というだけでなく、一般的に受け入れられる上手な文章であると言って差し支えないと思う。

そしてもう一点、選者たちが、それぞれに好悪の違いはありながらも口をそろえて述べているのが、この小説の『暴力』というところだ。作品の内容に触れるので、ここで簡単にあらすじを追っておこう。

歩という転勤族の家庭に生まれた少年が、「僻地」へと引っ越して来る。廃校間近の、三学年合わせて十二人しかいない中学校で、彼は晃という少年が率いるグループと行動を共にすることとなる。晃は、二年生の時、技術家庭科の授業で制作した鉄鋼で旧友の頭を殴打して七針を縫う怪我を負わせた問題児であるが、実際に付き合ってみると、女子達が噂するほどの悪逆非道というわけでもなく、ちょっと乱暴な同級生という程度なもので、転校を繰り返した結果新しい環境に溶け込むことが得意になっていた歩は、特に問題もなく彼らと、少なくとも表面上は打ち解けていく。

彼らの生活は、『僻地』らしく、東京からやってきた歩には少々古臭く感じられるものが多い。例えば、彼らは花札を変形させたような遊びで賭けをやる。賭けに負けたものは、みんなにジュースを奢らされたり、時には万引きをさせられたりする。花札の親になるのは必ず晃で、それは先輩たちから代々受け継がれてきた『役割』だという。負けの代償が大きい時に負けるのは決まって稔という、やや小太りの少年で、彼こそが中二の時に、晃に頭を殴打された張本人だ。そんな過去があるにも関わらず、彼が晃のグループに属しているということに、歩は若干の違和感を覚えるが、人数の少ないここでの生活では仕方のないことだろう。初めて歩が彼らの花札を見学した際にも負けたのは稔で、その結果彼は、高校生と喧嘩になった場合の護身用として、アウトドア用品店からナイフを万引きする。そのナイフを誰が所有するかを決めるのも花札で、この回が歩の初参加となる。その結果、『鬼雀様』という特別な役を出したことで、彼がナイフの所有者に選ばれる。

小説はこのような、田舎の少年たちの日常を淡々と描写していくが、クライマックスは、市街のカラオケに行くという嘘で連れ出された歩が、代々の卒業生達が集まっての『マストン』という儀式に参加させられる場面だ。それは花札で負けて選ばれた在校生の一人が演者として『サーカス』と呼ばれる玉乗りゲームに参加させられる儀式で、演者は「後ろ手に縛られた状態で球に乗り、右へ三メートル、左へ三メートル移動した後に、三回廻って××マストン、と名乗る」というものだ。しかし、後ろ手に縛られた状態で玉乗りなどできるはずもなく、演者は何度も転倒する。しかも縛られていて受け身をとれないために、鼻が折れたり全身傷だらけとなる。それでも、周りを囲う卒業生たちによって何度も玉乗りへの挑戦を強要される凄惨な儀式だ。

花札の賭けに負けたのは勿論稔である。稔は「左右の眼窩はテニスボール程にも膨れ上がり、もう顔貌が変わっていた。その赤紫色に腫れた瞼から、絶え間なく生血が染み出している。鼻筋も倍ほどに膨れ、鼻腔からも血液が止め処なく溢れ、稔は赤い涙を流し、赤い唾を吐きながら、腫れた口腔をもごもごと動かして喋り難そうに、痛い、痛い、もうこれ以上は出来ね、勘弁してくだせぇ、と懇願する」が許されない。最終的に、逆上した稔がポケットからナイフを取り出して暴れ出す。皆が一目散に逃げ惑う中で、稔は歩を捕らえ、彼を押し倒してナイフを振り上げる。歩は、稔が腫れ上がった瞼のために周りが見えておらず、彼が狙うべきはずの晃(後述するが、花札ではいつも、晃のイカサマによって稔が負かされている。今回も、そのために稔はサーカスをさせられることになった)ではなく、間違えて自分を攻撃しているのだと思い、自分は晃じゃないと叫ぶ。しかし稔は、「わっだきゃ最初っから、おめぇが一番ムガついでだじゃ!」とナイフを振り下ろす。

何とか襲撃を逃れた末に気絶していた歩が、全身血だらけになりながら、河面の、平らな岩の上で目を覚ますところで、この小説は終わる。

選者がこぞって『暴力』こそがこの小説の主題であると述べたことも首肯される。その描写力も相まって、後半は、実際に値と泥の混じった匂いが鼻を突くような迫力がある。しかし、本当に、文章の上手さと暴力だけで、この小説を語ってよいものか、もしそれだけなのであれば、『描写のしっかりした良質なバイオレンス小説』とでもいうべきものであろう。しかし、そういう形容にとどまらぬ力が、この小説には確かにある。

それでは、私はこの小説から、『文章の上手さ』と『暴力』以外に何を感じ取ったか。先に行ってしまえばそれは、『役割』と『革命』ということである。

なぜ私がそれを感じたか、それを説明するために、もう少し深く小説を見ていきたい。

まず、『役割』についてである。すでに小説を読んだ方の中には、あるいは「なるほど」と考えておられる方もいられるかもしれない。この小説では、明らかに『役割』ということが強調されている。花札の親の『役割』はいつも晃に与えられているし、その結果彼は『支配者』としての役割を、稔は『服従者』としての役割を担い続けることになる。花札の親の役割が、先輩から晃に受け継がれたように、この土地では、伝統的な。役割の継承が行われている。花札の親が何故権力の継承になるかと言えば、それは作中で歩が見抜いた通り、親のイカサマによって敗者が決められるようになっているのからだ。おそらく、このイカサマの手法も代々継承されてきたであろう。イカサマにより敗者を決めることが出来れば、親は、どんな命令でも、任意の者に行わせることが出来る。

彼らの前の世代でも同じ役割分担が与えられていた。そして、それは普段は彼らの学年のグループのみにとどまるものだが、『マストン』の儀式の中では、その役割分担が。卒業生にまで共有されることとなる。彼らはみな、その中学校生活の中で、何らかの伝統的な『役割』を担ってきた経験がある。彼らは代々続く役割制度の中に生きている。そういった状況の中で、転校生として歩がやってくる。彼は伝統的な役割の外からやって来た存在である。だから、彼はその枠組みの外の観察者という特殊な役割を担っている。

伝統的な『役割制度』の中で暮らしているから、少年たちは役割に対して過敏になっている。そのため、学年の担当委員決めの際、歩が学級委員長として晃を推薦すると、晃は「なしてそう思う」と「すぐさま鋭い口調で」問い、「晃にしては珍しくどこか慌てた様子」になる。まだこの土地に来たばかりの歩には、役割の重要性が分かっていない。だから、普段からリーダー格の晃が学級委員になるのが自然だろうくらいにしか考えていない。しかし、この土地に生きる彼らにとって役割は極めて重要なものである。だからこそ、学級委員長を引き受けることになった晃は、副委員長として歩を推薦する。これは、歩に理解されることはなかったが、晃から歩への復讐である。

晃の役割は『支配者』である。誰も彼には逆らえないし、彼らのグループの行動を決めるのもいつも彼である。それに花札の親という、伝統的に継承されてきた権力も握っている。しかし、晃には支配者として不安定なところがある。例えば、彼岸様という、屈伸運動を繰り返した後にビニール縄跳びで首を締め上げ、ある種の酩酊状態となることで『彼岸様』なる像と交信する、いわば、憑き物遊び、暴力的なコックリさんとでもいうべき遊びの際、当然花札に負けて、屈伸運動を繰り返した後自らの首を絞めていく稔の絞め方が足りないと、後ろから無理やりに締め上げて、殺すつもりかと仲間の一人に止められるまでやめなかったかと思えば、『透明人間』という遊びで仲間たちが稔を透明人間とみなし、半日無視し続けた際には、「おめら今朝から、稔の言葉を聞き流してただろう。なんでだば?」と怒りを露わにする。このような、稔を異常なほどに攻撃したかと思えば、時には庇ってみせたりとアンビバレントな行動が、作中何度か繰り返される。この理由は、後半あっけなく語られる。中学一年のときには、晃は稔と同じ『服従者』の役割で、先輩たちからこっぴどく虐められていたのだ。作中では明確に語られていないが、『服従者』から、何らかの理由で『支配者』の役割への変化を達成した晃は、その役割を守るために、過剰に攻撃的になるときもあれば、かつて『服従者』だったものとして、稔に同情を感じることもあるという、複雑な立場にいるのだ。

ここで、『革命』という、私が考えるもう一つの主題が登場する。晃は、服従者から支配者へと『革命』を成し遂げている。それは、本来は起きえないことであろう。この人数の少ない閉鎖的な社会の中では、一度担った役割を放棄して別の役割へと移行することは極めて困難なことのはずである。晃が革命を成し遂げた場面を、作者は描いてはいない。しかし、作中の晃の行動を見るに、それはある種の『暴力』によるものであっただろう。つまり『暴力革命』というわけである。ここからは、私の推測に過ぎないが、中二の際の、稔への殴打事件こそが、その暴力革命だったのではないかと思われる。
歩に、殴打事件の理由について尋ねられた晃は、「俺の人権、侵害されはんでな」と答える。歩には意味が分からない。日常的に稔の人権を侵害しているのは晃のほうではないかと考える。確かに、現在の役割制度から見るとその通りである。しかし、まだ中二の時点では、現在ほど役割が固定されておらず、むしろ、中三の時点でそれぞれがどの役割を担うかについて、彼らがしのぎを削っていた時期だと考えればどうであろうか。事件の時、売店でコーラを買って来いという晃の命令を、稔は三度拒絶したという。支配者と服従者の役割関係が固定化した現在の彼らの関係性の中ではあり得ないことだ。つまり、稔もまだその時点では、服従者の役割を担いきっていなかった訳だ。そこで、晃は暴力を使う。その暴力という行為によって、支配者の役割を獲得した。先輩との関係では、服従者としての役割を固定化されてしまっていた彼が、先輩たちがいなくなる少し前の中二というタイミングの暴力行為によって、彼らがいなくなった後の社会での、支配者の役割を手にしたのである。この革命のタイミングが早すぎれば、先輩たちによって、もとの役割に戻ることを強制されたであろう。しかし、卒業していく先輩たちは、もはや、自分たちの後の学校社会の役割制度へ介入する意思を持たなかった。見事なタイミングでの暴力革命である。

それでは、結局服従者の役割を与えられた稔は、革命の意思を持たなかったか。意志は持っていただろう。誰でも、理不尽な状況に置かれてそこから逃れることを夢想しない者はいない。しかし、もと服従者であるゆえに、周到で強大な支配者となった晃のもとで、革命の機会を持たなかったというのが正しいところではないか。

稔の行動の中に、服従者の役割から離脱したいという意思を感じさせるものはある。例えば、彼はたまたま理髪店で鉢合わせ、歩と二人きりでの会話を持った際、自らが万引きし、今は花札の結果によって歩の所有物となっているナイフについて、自分が盗んできたので半分は自分に権利があるはずだ。だから、残りの半年は自分に所有させてほしいと願い出る。ここで、『権利』という言葉が出てきたことに、我々は注目すべきである。役割が絶対的で固定化されている社会の中では、権利など要求しようがない。花札で負けることが決まっている以上、どんな理不尽な命令にも従わねばならない。しかし、歩は、外からやって来た人間なのである。だからこそ、稔は『権利』という言葉を持ち出す。そもそも彼らの社会には馴染みがなく、外のものである言葉を。

これは、強権的で独裁的な社会にいる人々が、人権の保護をアメリカなど外の社会に求めることに似ている。彼らの社会では役割が強固に固定されている以上、革命を起こすことは容易ではない。だからこそ、そういう役割の外にいる人間に救いを求める。その際、外の世界では守られて然るべきと考えられている概念を持ち出す。

しかし、この要求は拒絶される。歩は「なぜか苛立ちを覚え」ながら、「悪いけれど。、君は燕雀に負けて。窃盗をし、僕は燕雀に買って所有権を得たわけだから。あの刃物は正当な理由で僕の物になったのだから、君に渡すわけにはいかないよ。」と答える。

ここで注目すべきは、歩があえて、「窃盗」だの「所有権」だの「正当」だの、およそ少年同士の会話には似つかわしくないような言葉を使いながら話している点である。彼は、稔のような「僻地」の、それも服従者の少年が、権利などという言葉を使ったことに驚き苛立っている。そして、権利と共に近代的社会に不可欠とされる『論理』を駆使して彼のよう要求を撥ね付ける。近代的な社会(東京と地方でそこまで差があるとは思えないが、この小説の中では東京が、地方の少年たちにとっては未来的な夢の場所として描かれている)からやって来た少年が、僻地の少年の論理的裏付けの弱い権利要求を拒否するわけである。

さて、稔から見れば、歩の救援は、つまり近代社会からの救援は見込めないようになったわけである。独裁的な権力に対して対抗するすべを持たず、そして『近代的な』諸外国からの援助も見込めなくなりながら、現在の状況に耐えられない人々が行きつくところはどこか。我々は、歴史の中で繰り返しそれを目撃している。テロリズムである。
 最終的に、稔は実家の精肉店から持ち出して来た円盤状の刃物で、彼に玉乗りを強要する先輩の一人を切りつけ暴走する。歩は一瞬、稔が自分の刃物を持ち出したのかと勘違いする。武器は渡さなかったはずなのに、というわけである。外国からの武器提供を断られた組織が、かつての戦争などで彼らの土地に残された武器を手にしてテロを実行する構図に合致するという見立ては聊か強引でもあるまい。そして、ここまでくれば、稔が何故、歩にあれほどまでの敵意を見せたかも明確である。

歩は、夢を見せてしまったのである。強固な役割社会の中で、それが当然だと思っていた日々の中では、何とかして耐え忍ぶことも可能だったかもしれぬ。しかし、歩の登場が全てを変えてしまった。稔に襲撃されながら歩は、「自分は暴力に加担していないし、嘲笑もしていない、それどころかコーラの残りまであげたのに、なぜ」と思う。歩には理解できない。その全てが、稔にとっては耐えがたい苦痛だったのだ。可能性を知ってしまうこと。そしてその可能性に再度突き放されること。絶望の中で生きる人にとって、これほど無慈悲なことはあるまい。(歩が、稔にコーラの残りをあげるというのも象徴的である。最もアメリカ的な飲み物であるコーラは、そのまま近代社会の象徴とも言えよう。その残りをあげるというのは、権利など近代的な価値を生まれながらに与えられ、それを当然と思いながら倦みすらしている近代人の無自覚で高慢な行為ではなかろうか)

かくして、稔も暴力を行使するわけである。しかし、晃がその行使によって革命を成し遂げた暴力と、稔のテロリズムとしての暴力は、一体何が違うのであろうか。革命とテロ理リズムの間に横たわる溝とは何なのであろうか。
 それは、『再役割化』の準備である。結局、社会の中では、役割化されることは避けられない。自由に思える近代社会の中でも、ある程度の範囲の中で役割選択の自由が与えられているだけである。例えば、明日から私が、『映画スター』の役割を担いたいと思ってもそれは許されない。しかし、『会社員』としての役割を捨てて『旅人』の役割を担うことにするくらいは許されている。どんな社会もそれぞれが、それぞれの役割を担って生きている。そういう状況の中で、晃の暴力は、その暴力によって、次にどのような役割構成による社会が形成され、自分がどの役割を担うかを見越したうえで、慎重にタイミングを選び実施された暴力である。その結果彼は、一度現状の役割構造を破壊した上で、服従者から支配者への役割変更を成し遂げた。だからこそ彼の暴力は革命なのである。(成功如何は関係がない。暴力に至るまでの道筋が重要である)

一方稔の暴力は、そのような次の役割構造を予想したものではない。追い詰められた末の行為である。彼が先輩を切りつけた瞬間、周囲の者たちは「バケモンだ」「あだま狂ったじゃ!」「神降ろしばしでまっだ。彼岸様ァ、此岸さおいでになられだ!」と叫ぶ。歩の目にも「確かにその姿は人間には見えなかった。稔の肉の形をした人外にしか見えない」。

彼は、晃と違い、暴力行使後の自分自身の役割を用意していなかった。そのため、服従者としての役割を捨て去った後の彼は何の役割も持たぬ存在となり、周囲の目には化け物としか見えない。テロ行為が、その実行者たち以外には『狂信的』な行為としか見えないのと同じである。もはや彼は役割を持たない。役割を持つためには、その社会に留まることがまず必要である。晃の暴力は稔に七針の傷を負わせたが、彼の親と教師とが稔の親に謝りに行くことで火消しとなった。つまり、晃は彼らの社会に留まることが出来た。しかし、実家のナイフまで持ち出しての刀傷沙汰では、彼も彼の家族も、この狭い社会の中で、これまで通り暮らしていくことは不可能であろう。暴力によって現在の役割を強引に捨て去った後、次の役割を獲得できなかったものは、当然その社会での役割を喪失することになる。その先にあるものは、社会からの視点で見れば破滅である。服従者としての役割として留まることか破滅することが、どちらが良いのかは分からない。ただ言えることは、彼はすでにこの社会のうちにはいない『化け物』になってしまったということである。

これまで見てきたことで、晃と稔の暴力が明確に異なるものであり、その差異を生み出す過程に、『役割』というものが大きく寄与していることが分かった。暴力を描く作品はいくらでもある。暴力は描きやすいものですらある。多くの暴力は衝動的なものであるから、そこに至る過程の描写が弱くても、最後に暴力を持ってくることで何となく決着をつけているように見える小説が数多く存在することも事実である。しかし、それらの小説とは明らかに別の次元で、この作品は存在している。

確かに、この作品には『暴力』が、激しくしつこい程に描かれている。しかし、この小説を単なるバイオレンス小説に留まらないものにしているのは、その暴力の書き分けである。作者の意図通りのものかはわからない。しかし、確かに、作者は、それぞれの暴力を別々の色を使って書き分けている。ている。だからこそ、この小説の暴力描写に、我々は驚嘆させられるのである。

暴力を描くことの上手な作家と言えば、中上健次や村上龍らが挙げられるだろう。しかし、この作者は、その描き方の精細さという点では、この二名をも超える筆力を持っていると、私は考える。「僻地」の少年たちの事件を題材に、『暴力』というものにここまで深く切り込んでいく様は並大抵のものではない。

高橋氏は「自分が書いている小説は、言うほど理不尽な暴力でもない気がする」という。その通りだろう、彼の描く暴力は、理不尽だとかそういう表面的なことを超えた次元で描かれている。

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