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最後の梨

1

「今日売れんかった分は、もうワヤにせんならんのう」

源の嘆息のような言葉に、隆二は、前髪を弄りながら、ふうんとだけ答えた。浮き足立った夜に遊んだ酔客達が、彼らの隣を過ぎていく。
ワヤにするとは言っても、本当にゴミにしてしまうわけではない。売れ残った梨は、まとめて工場に送られて、ごみ収集車の後ろについてるのとそっくりな機械で、グチャグチャにされ、グミやらジュースやらの原料になるのだ。だから、別に無駄になる訳ではないのだが、自分の育てた梨に拘りのある源は、それをワヤにすると表現する。 黒く、皺の多い顔が、年季の入った農家の威厳を示していたが、そう言う時は、本当に寂しそうな表情になった。

「こんなもん、売れるも売れへんも時の運やろ」
隆二には、父親の執着が分からなかった。別に有名な畑でもない彼らが作る梨は、いわゆるブランド銘柄ではない。だから、単純に売り物として梨を必要とした小売店から発注がくれば、その分が売れていくだけだ。はっきり言って、品質やらそんなことより、その年の気温や景気等、彼らにはどうしようもないものに左右されるのだ。無論、広告なんてものもない。全ては偶然のように、隆二には思えた。それは、駅の階段から順々に降りてくる働き人達と同じだ。彼らに個性を見出したところで、結局は色彩のない労働者に過ぎない。スーツに身を包んだ時点で、彼らには、例えば「社員数千人」とか、そういう白けた言葉しか与えられない。

「そんな、つまらん事ゆうなや」
源は、寂しそうな顔で呟くように言う。晩秋の寒さは思いの外厳しく、源の吐く息は白く濁っていた。
冗談やないわ。と隆二は心の中で毒付く。こんな寒い中、トラックの荷台に梨を積んで、畑から小一時間も離れた地方都市の駅前での移動販売など、当初源から聞かされた仕事内容に入っていなかった。数年前から始めたというが、隆二は、中学に入ってお決まりの不良少年になってから、家には殆ど居着かなかったから、こんな仕事があることは知らなかった。源から畑で働かないかと誘われた時も、農作業くらいなら、体力だけが取り柄で要領の悪い自分にも務まるだろうと思ったのだ。隆二は、悴む掌を擦りながら苛立っていた。
それに、この街は、去年までは彼が遊び回っていた場所なのだ。彼はここで、友達たちと馬鹿をやったり、喧嘩をしたり、女を追いかけたりしている間に、そこそこの有名人になっていた。暴力団にもスカウトされて、一時は真剣に考えてもいた。しかし、結局のところ彼には勇気がなかった。喧嘩をしたりするのは好きだったが、本職として命懸けでやる気にはならなかった。それで、最終的には、彼らの仲間内で一番「ダサい」とされる、家業を継ぐという道を選んだのだ。

彼は、昔の知り合いに、厚手の作業着に身を包んだ今の姿を見られたくはなかった。昔は、長身を殊更に見せびらかすようなファッションで、気取って見せていた彼である。なんだか、落ちぶれた自分の姿を、この街に嘲笑されているような気がしたのだ。
だから、源が声を張り上げて逆引きをする隣で、顔を伏せて突っ立っているだけであった。源は、それについて叱るとか、そんなこともなかった。自分は一体何のためについて来ているのだろうかと、他人事のように隆二は思った。

結局、終電間際の時間になって源が「今日は終わりやのう」と宣言した時、荷台の上には半分くらいの梨が残ったままであった。

2

畑仕事は、隆二にとって苦ではなかった。梨に愛情などというものは感じなかったが、それでも毎日少しずつ梨の木が育っていくのは愉快だったし、初めて彼が育てた木々が身をつけた時には、やはり達成感があった。彼は、この仕事ならずっとやって行くのも悪くないと思った。

しかし、困ったことには、彼が仕事を手伝うようになってから、源の体調がみるみる悪くなっていった。それは、隆二は、自分が仕事を覚えれば覚える程、源の命を奪っているような錯覚を覚えた。いつか隆二は、畑仕事を手伝うようになって、幾年ぶりかにまともに話すように話すようになった母親に、「親父の奴、俺が後継ぐ言うたから、安心して死んでまうんちゃうか」と冗談めかして言ってみたが、婚礼の時の娘時代の写真からうん十年経つうちに、すっかり源と似たような顔立ちになってしまった母親は、「半端もんが。まだまだ安心出来るかいな」と取り合わなかった。
しかし、源の不調は日を追う毎に重くなってゆき、畑の中で、急に咳き込んで、立っていられなくなるようなことも屡々あった。思えば、所謂思春期の時代に、この親子の間には殆ど会話らしい会話がなかった。源は、その時間を取り戻そうとするように、不器用な口調ながら、多くのことを息子に語った。初めてこの街に越して来た時のこと、父と母との馴れ初め、産まれてすぐに死んでしまったという自分の姉のこと、そういう色んなことを、隆二は畑の中で知ったのであった。

大きく身をつけた梨は、発注があった分は、全国の八百屋やらスーパーへと運ばれていった。しかし、幾分残った分もあった。それで今年も、「街行って売らならんのう」と源が言うのを、隆二は憎々しげに聞いたのであった。

「やめとけや。具合もよおないんやし、街で倒れたらことやでぇ」
そう言ってから隆二は、自分は卑怯者だと思った。自分が街に行きたくないことを、父親の体調のせいにしている。俺はいつからこんな、姑息なやつになってしまったのだろう。昔の俺は、と思いかけて、それ自体が恥ずかしい事のように感じて首を振った。
「そんなこと言うても、黙ってワヤにすんのも可愛そうやからのう。最後の悪足掻きや」
そう言ってカラカラ笑ったが、その声に力がないのが悲しかった。この父が、もっと力強く仕事をしていた時、俺は皆んながそうしているからというだけの理由で、夜な夜な遊び回っていたのだ。今更後悔したって仕方がないが、なんて残酷なことをしてしまったのだろう。親にとって、子から全く省みられない数年間というのは、いかに情けないことだったであろう。
「ええわ、ええわ。それやったら俺が一人で行ったるわ。去年ついて行って大体分かったし、ヨボヨボの爺さんが客引くよりも、若もんがやったほうが幾分売れるやろう」
勢いで言ってしまってから、隆二はしまったと思った。源の顔が、泣き出しそうな笑顔に変わったからだ。「えらい、すまんのう」そう言った源の目尻からは、本当に涙が溢れそうであった。こうなってしまってはもう引っ込みがつかなった。次の日から、隆二は荷台に梨を載せて、一人で街へ向かうようになった。

3

ビギナーズ・ラックとでも言うのか、若さの力とでも言うべきか。梨は、去年とは違って飛ぶように売れた。隆二は、髪は短くしてしまったが、顔の作りが整っていたので、客の受けも良かった。源のような無骨で誠実な受け答えは自分には出来ないと思っていたので、わざと馴れ馴れしく、道行く人々に話しかけた。三時間も立っているうちに、昔の知り合い達も通りすがった。サラリーマン然とした格好になっているものもいれば、相変わらず遊び人風情のものもいた。話しかけてくるものもいれば、遠くから馬鹿にしたように眺める奴らもいたが、隆二には気にならなかった。

いつのまにか、梨は後一つになっていた。後一つ、売ってしまえば、とにかく今日持ってきた分はどれ一つとして「ワヤ」にはならない。まだ、倉庫には大量の梨が残っているので、楽観的にはなれないが、毎日この調子で続けられれば、今年は一つもワヤにしないで済むかもしれない。
隆二は、源に向かって、全部売り捌いてきたぞという自分を想像してみた。あまり、誇らしげに言うのも恥ずかしいので、努めてなんでもない風に、ボソッと言ってのけるのが良いかななどと考えていた。
しかし、源は、自分が売り切ったということを、信じてくれるだろうか。途中で飽きてしまって、どこかに梨を捨ててきたなんて思われはしないだろうか。そういう一抹の不安も過ったが、彼はすぐに打ち消すことが出来た。嘘ばかりついてきたこの口だが、梨のことに関しては、誤魔化しを言う気になれなかった。そして、源も、それについては自分を信用してくれるような気がした。街は、去年よりも明るく見えた。道行く人々の顔には、小さな幸せが浮かんでいるようにも思えた。

「おぉ、ホンマや!松山やないけ!」
声の主は、振り返らなくとも分かった。相変わらずの嗄れ声。一番会いたくない奴に会ってしまったが、この駅前で声を張り上げている以上、それも覚悟の上であった。
声の方を見やると、三年ぶりに目にする鎌田は、相変わらずのジャージ姿で、どこからどうみてもチンピラという風情であった。最後に会った時には金髪に近い色だった筈だが、今は赤味がかった長髪が、頭の悪そうな顔の上に乗っていた。隣には、隆二の知らない女が立っていたが、鎌田と同じような装いで、まさにお似合いのカップルという感じであった。
「Twetter見てたらよう。お前がここにおるて智美が書いてたからよう。わざわざやってきたんよ」
智美というのは、隆二がたまにつるんでいた女で、別に特別親しかった訳でもないが、久しぶりに見た友人に興奮して、悪気もなく書き込んだのであろう。隆二は苦々しく、梨を片手に買ったその場で自撮りをしていた彼女の笑顔を思い出した。
鎌田は馴れ馴れしく隆二の肩を抱いた。三年前には、考えられなかった態度だ。こんな格好じゃ舐められてもしゃあないなと、隆二は腹も立たなかった。ただ、煙草臭い息が不快だった。
「それで、どない?売り上げは?」
鎌田がそう言うと、女が無遠慮に荷台の上の段ボール箱を覗きこんだ。
「あれ、後一個?すごいやん!」
女につられて、同じように覗きこんだ鎌田も、ホーッと感嘆の声を上げた。隆二は、梨に唾が飛んでいるように感じで不快だった。後で誰かが最後の一つを買ってくれた時には、念入りに拭き磨いて渡そうと決めた。
「しかし、松山がこんな仕事をのう」
始まった、と隆二は思った。鎌田は、明らかに挑発する目つきで、口元には嫌らしい笑みを浮かべている。相手にしちゃあダメだ。と隆二は自分自身を諭す。鎌田とは、これまで何度も揉めてきた間柄であった。しかし、本当に殴り合ったことは一度もなかった。体は、隆二の方が一回り大きかったし、喧嘩の場数も明らかに上だった。それで、隆二は、いつも、口ばかりで臆病な鎌田を馬鹿にしていて、態度にもそのことを露骨に示していた。それで、鎌田は、今、復讐に来ているのだと、隆二は思った。
「でも、うち梨なんかいらんわあ。皮剥くのんめんどいもん」
女がそう言っても、隆二は何も感じなかった。それは人の好みの問題だし、実際、この駅前を通り過ぎる人々のうち、梨が好きなのは十人に一人だろう。そして今日、隆二から梨を買ってくれたのは、さらにそのうちの十人に一人くらいのはずだ。それならそれで良い。さっさと消えてくれ。隆二は、知らぬ間に眉間に力が入っていたことに気付いて、軍手をはめたままの人差し指で擦って和らげた。
「まあまあ、別に食わんでもええやろ。後でキャッチボールにでも使おうや」
言いながら、ジャージのポケットをガチャガチャやって小銭を取り出した。隆二は、差し出された二枚の百円玉を見やりながら、客は客だと自分に言い聞かせた。しかし、受け取ろうと差し出しかけた右手を引っ込めて、「悪いけど、予約済みなんや、この梨」と口から出まかせを言った。どうせ食べるつもりもない奴らに売ってしまうことは、ワヤにするのと同じことだと思えたからだ。
とたんに鎌田の顔色が変わった。苛立ちを隠そうとせず、隆二を睨みつけた。
「そうかよ。ワシには売れんかよ。昔、お前の皺くちゃの親父はワシに売ったけどな」
鎌田は、まるで切り札を場に出すように、肩を窄ませて、下品に笑いながら言った。
「そんでな。買った瞬間壁に投げつけったんや。親父、お前の息子は生意気やぞって言いながらな。お前の親父は、キョトンとして何も言い返しよらん買ったわ」
女が甲高い声で笑った。急に周囲の風景は遠のいて、自分と鎌田、それて女だけが、白い靄の中にいるようだった。何が面白いのだろうと思いながら、脳味噌の半分は怒りに我を忘れて、もう半分は冷静に働いているような感じだった。近くに、神社があったことを、隆二は思い出した。鎌田は、俺なのだ。と隆二は思った。奴のように、幼稚な行動を取らなかったにせよ、自分のことばかり考えて、親父のような真面目な人を馬鹿にしている。それどころか、何か自分が世界の主役のように考えて、慎ましく正当に生きる人を端役としてしか扱っていない。数年前の俺も、ちょうど同じような奴だったのだ。いや、もしかすると、たった今もそうかもしれない。
「鎌田、ちょっと付き合えや」
隆二が久々に凄んで見せてそう言うと、鎌田の表情は一瞬強張ったが、女の手前で芋を引くわけにもいかず、「おう」と一言、低い声で答えた。

3

ブランクは怖いでぇ、と隆二は自分自身を揶揄うように呟いた。何発か良いのをもらって、歩くだけでも体がズキズキする。それでも、とりあえず、蹴り方を忘れてなかったのは良かった。随分足が重かったが、しっかりと鳩尾を捉えるのには失敗しなかった。
荷台の上には、やっぱり梨が一つだけ残っていた。それを見ると、隆二は、「失格やなあ」と無意識に口に出していた。もうこの梨は、誰に買われてもワヤになってしまうのと同じなような気がした。
隆二は、軍手を脱いで、その梨を手にとった。自分で食べてしまおうと思ったのだ。梨を放ったらかして、喧嘩に行ってしまった自分。そのことを、この梨を胃袋に入れることで、自分の身体に戒めとして刻んでおくべきだと妙な考えが浮かんだのだ。まだ終電までは時間があるから、きっと一個くらいは売れるだろう。しかし、自分にはこの梨を、誰かに売る資格はないような気がしたのだ。

「すみません!」
まさに、隆二が口を開けて梨に齧りつこうとした時、切羽詰まった声が飛んできた。見ると、息を切らした中年の男が、膝に手をついて肩で息をしながら、こちらを見上げている。
「梨・・・売って・・・ください」
男は、絞り出すようにそう言った。この寒いのに、前髪の先から汗が滴っている。余程焦っていたのか、ズボンの右裾が不自然にせり上がっているのにも気がついていないらしい。
「すみません。今日の分は、もう売れてもうて」
隆二は、梨を手に持ったまま言った。もうほんの十五分くらい早く、鎌田が来る前に来てくれれば良かったのにと思った。
「そ、その・・・手に・・・持ってらっしゃる・・・それ一つで良いんです」
はあ、と隆二は、口から空気が抜けるような声を出してしまった。口をつけていないのだから、まあ、まだ売って悪いということにはならないだろう。しかし、さっき自分は、この梨を売ることは自分には出来ないと思ったのだ。ただ、目の前の男の様子は尋常ではなかった。
売ってしまおうと、隆二は思った。
「今、自分で食べる直前やったから、お代は良いです」そう言って差し出した梨を、男は両手で差し出すと、ありがとうございます!と、周囲の何人かが驚いて振り返る程の声で言った。
「でも、お金は・・・」と財布を取り出す気配だったので、ホンマに、ええですから、と隆二は男の肩に手を添えて制止した。男は、本当に、本当に、ありがとうございますと叫んで深々とお辞儀したので、隆二は驚いて、いや、いや、と男よりも深く頭を下げた。
男は、嵐のように、タクシーに飛び乗って去って行った。隆二は、狐につままれたような気持ちでそれを見送った。

帰り道、トラックを走らせながら、長い一日やったでぇと、隆二は暗い道路を見やりながら独り言ちた。源の顔や、鎌田の顔、最後の梨を買ってくれた男の顔、梨畑の光景などがフラフラと目頭の辺りに舞っていた。身体の節々が痛んだし、久しぶりの喧嘩で変な力が入ったらしく、えらく肩が凝っていた。しかし、隆二は、総合すると、まあ悪くない一日だったと思った。何となく、こういう毎日だったらやっていける気がした。自分が梨を育てて幸せになることは、梨農家としての生活を続けてきた源の人生を肯定することにもなると、妙な考えも浮かんだ。源は、眠らずに自分を待っているだろう。幸い、顔に傷はなかったから、喧嘩のことはバレないだろう。帰ったら、どんなことを話そう、そんなことを思いながら、隆二はハンドルを切った。荷台が空になったトラックは、行きの道よりも軽やかに走っているような気がした。

クリエイターサークル「ユルト」 内の「鳩企画」用の作品です。

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