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奈落の底(と思わしき場所)

思うに、奈落の底などない。

奈落の底だと思わしきその底は、ある日突然、パカッと開く。そして、私はさらにその下に落ちてしまう。

その底もまた、奈落の底ではない。そして、私はまた落ちる。

落ちて落ちて、落ちていく…

✳︎✳︎✳︎

目の前を快速電車が通過する。

ここは駅のホームだったと、我に返った。

月曜日の朝7時。私は今日も職場に向かうため、各駅停車の電車を待っている。

ーー快速電車が止まる駅を選べば良かったな

上京して10年。当時、右も左も分からなかった私は、この町に住むことを選んだ。

特に大きな理由はない。快速電車が止まらないから、家賃も安かったし、なんとなく故郷の雰囲気に似ていたから、とりあえず住むことにした。そして、そのまま10年が経った。

お店も少ないし、都心からも結構離れているので、どちらかと言えば不便な町だと思う。なのに10年間、特に好きでもないこの町に、私は惰性で住み続けている。

大学卒業後、私は故郷を離れて東京で働くことを決めた。なんとなく都会への憧れがあったからだったように思う。一人娘だったので、両親は心配したけれど、最終的には笑顔で見送ってくれた。そして、私は都内の人材紹介会社に就職した。

たしか、就職という人生の節目に携わりたかったからだったように思う。今では初心も忘れてしまったが、働き始めはやりがいにあふれる毎日だった。とにかく目の前のことを一生懸命頑張っていたと思う。

が、それがいつからだろうか。

やはり営業職である。数字がものをいうので、成約数をあげるための仕事をするようになっていった。人材紹介業は、求職者と求人者のマッチング。違和感を覚えながらも、多少強引な成約もするようになった。そして、いつしか違和感もなくなっていった。

評価もされ、それなりに昇進もしたが、入職したころのやりがいは感じられなくなっていた。

求職者には、やりがいのある仕事だと職場を紹介しつつ、やりがいってなんだろう、とか、はたらくってなんだろうと、ここの所ずっと考えてしまっている。

「高橋さん、ちょっと」

会社に着いて、デスクでそんなことを考えていたら、部長に呼ばれた。

「ここ、1ヶ月で3人立て続けに退職してるし、フォロー行ってきたら?」

職場への謝罪対応。

多少強引なマッチングを進めていた自覚もあり、最近は入職後、短期間で求職者が退職してしまうケースが増えていた。

人と職場を結びつける以上、扱うのは人。他者は自分の思う通りにはいかないし、人の心なんて分からない。ただ数字はあげないといけない。それがこの仕事の難しいところだと思う。

私は会社を出て、その職場へ向かうことにした。

ーー底だなぁ。

そう感じられずにはいられなかった。

ここの所、仕事もプライベートも上手くいかない。最近楽しいことってあっただろうか。ただなんとなく日々を過ごしている気がする。

「この時間だと、JRと地下鉄のどっちが早いだろう」

ぼーっと歩きながら、私はスマートフォンを取り出し調べ始めた。

と、視界の右側に自転車が入る。気がついた時には、私は転んでいた。

幸い徐行だったので大事にはいたらなそうだが、足を痛めたようで、動けない。

ふと、足元がパカっと開くイメージが思い浮かぶ。

ーーまた落ちた

「大丈夫ですか!?」

自転車を運転していたのは、高校生だった。すぐさまタクシーを拾ってくれて、行き先を運転手に告げる。

「さくら病院までお願いします!」

ーー皮肉なものだ。謝りにいく病院にこういう形で向かうなんて

私が務める人材紹介会社は、看護師に特化している。私はさくら病院に向かっているところだったのだ。

病院に着くと、その高校生が肩を貸してくれてロビーまで付き添ってくれた。

今思えば、私がぼーっとしていて、交差点に飛び出したのだ。この高校生は悪くない。

大した怪我でもなさそうなのに、タクシーの中で、彼は気遣いの言葉をたくさんかけてくれた。

目の前の人に一生懸命に真摯に向き合うって、こういうことなのだろう。少し懐かしい感じがした。

「もしかして、高橋さんですか?」

向こうからやってきた看護師さんが、そう言った。

「あ、佐々木さん!」

その看護師さんは、かつて私が担当した求職者の佐々木さんだった。

そういえば、就職して一番最初に成約できたのが佐々木さんで、職場はさくら病院だったことを思い出した。

佐々木さんは、話してくれた。

あれから10年間、さくら病院で働き続けていること。さくら病院に転職して、本当に良かったと思っているということ。ずっと、私に感謝してくれているということ。毎日一生懸命頑張っているということ。

かつての私も、あの高校生のように、目の前の佐々木さんに真摯に向き合っていたのだと思う。

過去の私が真摯に向き合ったからこそ、佐々木さんは今、幸せでいてくれているのだ

そしてこの佐々木さんは、このさくら病院で、たくさんの患者さんを幸せにしてきた。

きっと、はたらくというのは、目の前の人を仕事を通じて幸せにすることなのだろう。

自分が幸せにできた人が、仕事を通じて他の人を幸せにしていく。幸せは連鎖する。その幸せの連鎖の中に自分がいるなら、それはとても光栄なことだ。

なんとなく分かった気がした。


レントゲンを撮り終わって、椅子にかけていると佐々木さんがやってきた。

「良かったですね、骨は折れてないみたいです。少しすれば、痛みも引いてくると思いますよ。入院も必要なさそうです」

佐々木さんの笑顔は素敵だ。笑顔を向けられたこちらまで、笑顔になる。きっとこの笑顔でたくさんの患者さんを幸せにしてきたのだろう。私もこの先、たくさんの人を幸せにしよう。私は静かに決意した。

「ありがとう。まずは、引っ越してみようかな。快速電車が止まる駅に」

「え、何のことですか?」

佐々木さんは不思議そうに私を見ていた。

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思うに、奈落の底などない。

奈落の底だと思わしきその底は、実はまだ高いところにあったりする。そして、見渡してみると地上に向かって梯子がかかってたりする。

その梯子を登るか、底に留まって落ちるのを待つか。それは自分次第。

私は登ろう。この先、何度でも。

奈落の底だと思わしき場所に、落ちてしまったとしても。


※この物語はフィクションです


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