スペシャリテとは?料理には何故ストーリ性が必要なのか?その真意とは?
私が料理人人生をスタートしてから、ことごとく先輩料理人に
『お前の料理とはなんだ?』
『お前が見えてこない、どこから生まれた料理なんだ?』
と言われ続けてきたことがある。これは散々いろんな人に言われてきて、料理人がみんな通る道のような記憶があるし、実際レストランを経営した頃、結構言わたりする事も、最初はありました。
これについての自分なりの答えはあるが、一般的には理解して頂くことは出来ないかも知れないので、レストランや公の場で、説明はしていない。
■『ストーリー性』とはエゴであり、味には全く関係がない
精神的な観点から考えるのであれば、ストーリー性が想像力を掻き立てるという意味では、味が美味しく感じる役割の一端を担っていると言える。しかし想像力を借りた結果、発見できる味があった という結果にすぎないので、これは食べ手の味覚の問題でもあると解釈できる。(勿論、料理の時代背景で味覚とは違った形で感動を生むことはあると思います)
ワインの味が分からない人が、説明を聞いたら何となく風味を感じ取れるようになる感覚に近い。
実際に、『塩気の感じるワインです』と説明した時に、比喩的な表現であり塩分は一切入っていないのにも関わらず、『このワインの塩気がおいしい、塩気を感じる』と、食べ慣れているであろう自称グルメな人に、自信満々で言われた事があります。
また、見習いの時代に『私が作りました』とシェフが作った賄いを出したらボロカスに言われ、『シェフが作りました』と私が作った料理を出したら、褒め称えられる、そんな検証を実際に何度もやってきました。
※8割くらいはこれに引っ掛かります
その想像力を借りて、「事細かに説明した結果に感じる味」を求める客は、全身ハイブランドで身を固めて武装するのを好む人のような、そんな感覚に似ている。
非合理的で本質的では決してない捉え方であると感じる
特に料理評論家気取りの人は、とにかくその様な、スペシャリテや、ストーリー性を追い求めている。辛い物を食べてばかりで、刺激物を常に欲している、中毒者のような感覚に近いだろう。
◾️重要な焦点
ここで、勘違いしないでほしいのは『説明して初めて感じる味』を体験してもらう必要があるのが、一般のお客様であって、無駄にストーリーや背景を追い求めるグルメ評論家気取りの人は、一度原点に回帰する必要性を説いています。
料理の説明は必要ですし、説明しないとわからない様な料理を提供している様であるならば、美味しいと感じてもらえる料理を作る必要があります。
ですから、ストーリー性や背景などを説明しなくても、本能的に美味しいと言ってもらえる様な、美味しい料理を作る事を目標にしていてます。
■背景を気にしなくても飯はおいしく食べられる
私は、とにかくレストランに対して、口うるさい客だった過去がある。この時は料理人では無かったので、これがのちに料理人を目指す要因の一つになったともいえるだろう。
当時は若かったので反省しているが、料理の作り手が変わっただけでも食べたら分かるくらい神経質で、クセも把握していて、お店でよく細かい注文をしていた記憶がある。いつも作っている人でお願いしますとお願いするくらいだった(あるイタリア料理レストランの話で厨房の人の顔も名前も一切知らない)
ストーリー性やスペシャリテなんてものは不純物で、とにかく美味しければよく、美食とはもっと本能的で、本質的であるべきだと、そういう一つの形も、あっていいのではないかと思っている。
ストーリー性や、スペシャリテに惹かれて食べに行くことは、現代社会の広告に踊らされる人々や、広告に飯を食わされている人々、と類似している様に見える事がある。
■何処まで行っても料理はエゴに変わりない
結局は自分がうまいと思っているものを、提供しているだけなのでエゴなことには、もちろん変わりはないと思っています。
明確な割合は判明しているわけでは無いが、味覚の形成は、遺伝子的なものとは別に、経験による影響もかなり大きいとされていますから、人によって好きな味は勿論異なります。
それらを、ハイブランドで着飾ったり、料理人が生きてきた人生観やストーリーを付ける必要性を、再考する必要があると思います。(必要あると感じている人もいると思います。)
料理とは本能的であって、その原価バリエーションがいっぱいあるだけでよく、ストーリ性やスペシャルな感覚は、立地や内装などの雰囲気などで十分であると、自分は感じる事があります。
ストーリーは、己(お客様)が作ってこそであって、食事は副次的な行為であり、己(お客様)のストーリーの一部となり手助けをするのが料理、料理人。そんな脇役でもいいのでは無いでしょうか。
家族で食べた時間がストーリーになったり、彼氏や彼女と食べた時間や、それまでのデートしてきた過程がストーリー性であって、そこに料理人の人生や、その料理を作るに至った時代背景は、全く関係がなく、それを主張することは、少々料理人が前に出すぎなのでは無いかと思う事があります。
そこで食べる料理が美味しいに越したことはなく、美味しかったら幸せな時間が、もっと幸せになる。それだけでいい事もあるでは無いだろうか。
勿論、数ある飲食店の中で生き残っていくには、付加価値と称し、無駄に誇張したストーリー性や時代背景(広告)を、大々的に、大道芸のように披露する必要があるのは仕方のない事ではあるが、
本当は、料理そのものを見て、美味しいと感じ、時間を共にしているその相手を大切にするべきなのかも知れない。
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