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私が文章を書く理由

何で文章を書いているの?と聞かれて、煮え切らない思いを抱えつつも、とりあえず「文章を書くことが好きだから」と答えてきた。いや別に間違っている訳ではないのだが、かといって何かを書きたいという欲が物凄く強いわけでもない。まあ別に理由は特になくても、書く機会をいただいたり、時折何かしら書きたいことを思いついてキーボードを叩いたりしていて、それだけでも一向に構わないのだが。先日、ふとした拍子にモヤモヤに晴れ間がみえたような瞬間があった。

私が文章を書くようになったのはここ半年くらいだ。それまでも全く書いていないということはなかったが、それらのほとんどはまとまった文章というよりかは、とりとめのない文の羅列のようなものだった。当然人に見せられるような代物ではなく、Wordに書き殴った文の羅列を、自分のPCの「雑考」と名付けられたフォルダに放り込み続けてきた。

私が一番したいことは、いろいろなものごとを“知ること”だ。それは今も昔も変わらない。実利的な情報でも概念的な事柄でも、今のことでも昔のことでも、何なら文系でも理系でも。もっとも理系分野については、興味はありつつも、高校1年で挫折したきりなので、もしやるならば時間をかけて、腰を据えて勉強しなければいけないが。文章を書くということはあくまでそうした”知ること”を補助する手段だ。

私はこれまで、色々なことを知りたい、とは思いつつも、それを文章などといった、きちんとした形でアウトプットしたいといった欲がほとんどなかった。それに時間をかけるくらいなら、その分でもインプットに時間をかけたいという思いだった。そして、あくまで知ることは、例えば本を読むことは趣味であり、何かの必要に迫られて行ってきたことではなかった。なのでそれだけでも十分問題はなかった。

その状況が変わったのはやはりここ半年くらいで、複数の場所で文章を書く機会を貰ったり、書く必要に迫られたりするようになった。そうして慣れないながらもまとまった文章を書くようになったのだが、実際に書くことで気が付くことや、人の文章を読むにあたっての姿勢にも変化が起こった。

本などを読んでいて例えば、「AはBとCという理由でDである。」という文章があったとき、以前の私は「なるほど、結局のところAはDなのか」という表層的なことしか読み取ってこなかった。けれど自分で書くことをすると、その文章がどのように構成されていったかを気にするようになった。つまり、なぜBという事項を理由として挙げているのか、Cを読み手に理解してもらうためにどのような説明を展開しているのか、などといったことをみていくようになった。それは書き手の目線であり、その人の思考の道筋を辿る行為でもある。

文章を書くというのは、「私はAだと思う」という本来なら20字にも満たないで完結してしまうことに「こういう理由だから」「過去にこんな経験をしたから」「あの人がそんな風に言っていたから」などといった様々な材料を肉付けしていくものだ。その”肉”をどこから持ってくるのか、果たして適当なのか、読み手に伝わるようにするにはどんな書き方をするのがいいか。そうしたことを考えるのに、人の文章を読むことは大いに参考になる。

そして、ただ読んで知るということと、それを人に説明することは違う。人に説明をするためには読んでインプットした情報と、それまで自分が持っていた知識とを結び付けなければできない。さらに、話し言葉で説明をするときならば、漠然とした言葉づかいだったり、ニュアンスで伝わることも多いが、文章にする場合はきっちりとした説明や言葉を選ぶことが求められる。自分がこれまで漠然と考えていたことも、新しく知る情報についてもきちんとした理解が必要となってくる。

正直文章を書くことは面倒くさい。頭の中で、こんなことを書きたいと妄想することはとても楽しいのだが、それをいざ文章にしようとしてPCに向かうと、思うように組み立てられずに情けなくなったり、イライラすることもある。けれど当初から意図したものではなかったが、書くという作業を始めたことによって、私がこれまでずっと楽しんできた”知る”という行為の質も上がったように思う。そういうモチベーションのもと、今後もいろいろなことを書いていきたい。

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