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「諏訪の国」と御柱祭

中央本線松本行に乗って甲府を過ぎ、小淵沢に至ると右手に八ヶ岳がそびえている。富士見を過ぎるとトンネルをくぐる。出たときには川の流れが変わっている。しばらくすると左手に諏訪湖が光っている。下諏訪駅構内には、「諏訪の国」というキャッチコピーとともに地元出身のタレントが写ったポスターが貼ってある。そうした光景を見ると、諏訪に来たな、という気分になる。

諏訪に出会うきっかけとなったゲストハウス

私と諏訪との出会いは、中山道の街道めぐりをしていたときだった。中山道随一の難所といわれる和田峠を下ったところに下諏訪宿がある。私は、峠に至るけもの道のような旧街道を上りながら、スマホでその日に泊まる宿を探していた。下諏訪は現在も温泉街なので泊まる場所に困ることはないはずだ。ただ、できれば宿泊料金を抑えられるところがいい。諏訪湖畔にはネットカフェがあるようなので、そこも悪くはない。

そんなことを考える中で見つけたのがとあるゲストハウスだ。ネットカフェに比べればやや高いが、建物は古い旅館を改装した良さげな雰囲気だし、中山道筋からすぐのところだしいいだろう。そういう訳でそのゲストハウスを予約した。

泊まってみたところ居心地も良く正解だった。何よりその日一緒に泊まっていたお客さんの中に、中山道を以前歩いたという人と、下諏訪町の町会議員か何かで旧中山道の整備などをしている人が来ていて、お酒を飲みながら話が弾んだのだった。

中山道を京都まで歩き終えた後、電車で関東まで戻る途中、報告ついでにまたそのゲストハウスに泊った。そして、その後何度も遊びに行くようになり、最終的には1か月間スタッフをするまでになった。ちなみに客として、スタッフとして少なくない日をゲストハウスで過ごした訳だが、中山道を歩いたという人とは、最初に泊まった日以外では会っていない。そう考えるとあの日のことはかなり運が良かったのかもしれない。

御柱祭という大祭

諏訪で過ごす間にしばしば耳にしたのが、この地域で6年に一度(数え年では7年に一度)行われる「御柱祭」のことだった。諏訪湖を取り囲むように、諏訪大社が4社――上社前宮・上社本宮・下社春宮・下社秋宮――建っている。それぞれの諏訪大社には社殿を囲むように4本の木柱(御柱)が立っており、その大きさは直径1m・高さ15mに及ぶ。御柱祭のときにそれら計16本が立て替えられる。

山から切り出された御柱は氏子たちによって里まで曳かれる。その途中には川を渡ったり、「木落し坂」という40度程の斜面を、人と御柱が一緒に駆け下るといった行程がある。私は、かつてニュース番組か何かで、何人もの人々が跨った木柱が、坂を転げ落ちていく映像を見たことがあったので、日本のどこかにそのような行事が存在しているということは知っていた。諏訪に来て地域の人からこの祭の話を聞いたり、観光案内所や博物館を訪れたことで、私が記憶していた「行事」と御柱祭がつながったのだった。

ちなみに諏訪の街を歩いていると、地域の神社や小さな祠、さらには道祖神といった小さな石塔に至るまで、大社と同様、四隅に柱が立てられている。これらについても、御柱祭と同時期にそれぞれ立て替えられる。

千葉のベッドタウンで育った私は、いわゆる「伝統的な行事」とはほとんど関わらずに過ごしてきた。近所の盆踊りに顔を出して屋台で焼きそばを買ったり、都内の大きな神社の祭を見に行ったりしたことくらいはあるが、あくまで祭り当日に客としてしか関わってこなかった。祭に限らずこのようなイベントは、何か月も前から準備をしてきている人がいるはずだ。そしておそらくだが彼らは、本業を持っている傍らで祭の運営をしていると思う。生来面倒くさがりな私としては、それをずっと続けているということだけで凄いなと感心してしまう。

御柱祭という奇祭

御柱祭は日本三大奇祭の一つに数えられたりもする。八ヶ岳山麓の「御柱の森」から切り出された御柱は、約10㎞道のりを人の手だけで運ぶ。このとき車輪も“ころ”も使わず、文字通り引き摺っていく。大変な労力だ。そしてクライマックスの木落としは壮観な光景ではあるが、毎度のように怪我人が発生し、死者がでることも珍しくない。そのような祭の運営に関しては、賛否両論がある。

かつて、「祭」は祈りの場であった。生贄や人柱などが当たり前のように存在していた光景は、現在の私たちの価値観で見れば非人道的で残虐にみえる。しかし、当時の人々にとってそれらは、自分たちが生き残るために考え抜いた末に導き出した答えだったはずだ。

干ばつによって農作物が枯れてしまうかもしれない。川の氾濫で村が流されるかもしれない。自らの力が及ばないものについては、神に祈るしかない。何かを求めるのであれば、こちらも何かを捧げる必要がある。そのうちで究極のものが「人の命」だったのだろう。というより捧げるのものが「身体」しかなかった可能性も往々にしてある。村などの共同体を維持していくために、全体の利益のために、個の犠牲については目をつぶらざるを得ない状況があったのだと思う。

平穏無事な状態が続くときでも人々は、それが今後も続くように祈った。春には農作物の豊饒を祈願し、秋には無事収穫ができたことに感謝をする。先祖の霊を慰めたり、災いを除けるために祈るときもある。

祭は基本的に、決められた月日に決められたことを行う。代々受け継がれてきたことを変えずに、欠かさずに行うことで、これまでの平穏無事な暮らしが担保される。逆に言えば代々受け継がれてきたことを行わなかったり、神事の動作ひとつに普段と違うものがあれば、神への礼を失することになってしまう。神の怒りに触れれば、これまでの平穏な暮らしが壊れてしまう恐れがある。

現代人の視点でみると伝統行事や祭には、非生産的だったり、非効率にうつることもあるが、かつての人々にとっては、暮らしを守らなければいけないという緊張感のもとで行われていたのではないだろうか。

一方で現在、少なくとも日本において、祭が行われないことで、不利益が発生すると考える人はほとんどいないだろう。良くも悪くも祭はおおかたパフォーマンスだ。観光資源として、または“伝統文化だから残していくべき”という文脈で語られることはあるが、人々の暮らしの中で必ずなくてはいけないのものではない。

「伝統的な行事」も時代にあわせて形を変え続けている。それはそれで当たり前だし、仕方のないことでもある。古くからの形式にこだわって担い手がいなくなり途切れてしまうより、新しいものを取り入れながらも存続していく方がいいのでは、と私は思う。もちろん一概に言えるものでもないし、人によって様々な意見はあると思う。

そんな中で御柱祭は旧来の「祭」の形を色濃く残しており、ただのパフォーマンスだけに留まらない「何か」によって、祭が動かされているように見える。

「諏訪の国」の残り香

諏訪は特異な地として語られることが多い。諏訪大社や諏訪湖の存在、そしてかつては、盆地であるがゆえ他地域との往来には峠を越えなければならなかったという点から、独立した地域という気質が強かった可能性は十分にある。

ただ現在では、諏訪盆地にも鉄道が通り、峠にはトンネルが掘られ、高速道路が貫き、移動は容易になった。松本や甲府などに毎日通勤する人もいるようだ。諏訪が特異な地であるのは歴史上の話であって、現在は日本のどこにでもある地方都市のひとつにすぎないと考えることもできる。

私は諏訪に滞在している間、他地域に行く機会もあったが、松本方面に行く際に塩尻峠を越えるときには諏訪から“出た”または“帰ってきた”ということがやたらと意識の中にあった。そんな思いが湧いてくるのは、諏訪大社や諏訪湖などといった名所によるものか、それとも知り合いや行きつけのお店が多くあるからなのか。いや、もしかしたら「諏訪の国」という宣伝文句にまんまと乗せられているだけなのかもしれない。

世界中で交通網や情報の行き来が増大し、地域差や文化の違いはだんだんと少なくなっている。しかし御柱祭を通して諏訪をみると、時代の流れを受け入れつつも、独自性をも維持し続ける地域の姿が見えてくるような気がする。今度の御柱祭は2022年だ。「諏訪の国」に内在する「何か」を探ることはできるだろうか。

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