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私が耳を塞ぐ理由、そして草を触る訳。自分を傷付ける言い訳

 私は発達障害と精神疾患を持っている。
 そんな私の自己紹介をぜひ読んで欲しく、この題名にすることにした。
 どうにも、人と変わっていて、私がどうにも人である訳を、どうか、少しでも面白いと思っていただけたら、これ以上ない幸せな事だと思う。
 なのでこれから、少しばかりお時間いただきたい。私の名前は牛乳、発達障害と精神疾患を患っている。


双極性障害と躁と鬱と私と

 心療内科へ受診したのは、私がお酒が飲めるようになってからの事。前職で働いていたライター業の際、他人のした無礼を全て被らさせられ、よく分からない専門家の人とその秘書によくわからないうちによくわからないまま罵倒されたことが発端である。

 あの時のことを今振り返っても私は何も悪くないなと思っているが、思っているのに、自分を責め立ててしまう事が、病気の理由なのだと思う。脳と心が乖離した状態が長く続いた結果が今なのだろうと思う。
 私の病気は私理由ではないが私理由で長引いている。私の病気の名前は双極性障害。昔の名前は躁鬱病である。

悩みは必ず一つまで

 心療内科チケット(受診カード)はもう3枚を終わろうとしている。
 そんな折、主治医の先生がたびたび口にするアドバイスがある。
 「悩みは必ず一つまで」
私のような人間は先行きが怖く悩みを無限に持っている、貯金や人間関係、仕事や、もっと漠然とした将来への不安。
 それは全て一片にはどうせ片が付かないのだから、どれか一つに絞って解決策を練ろう作戦である。

 この作戦は功を奏していて、今まで私の抱えていた悩みは着々と片がつきつつある。問題は悩みは片付いてもまた湧き上がり、脳みその部屋を汚す事だが、まあ、仕方ない。
 また一つずつ片付けるためのコロコロを手に取るしかないのである。

 最近片付いた悩みは薬を飲まないと言う悩み。薬を飲む時自分は障害者である事を自覚させられるので(と普通に習慣化できずにいるので)飲まなかったが、お薬アラームを使いお母さんAIに毎日怒られる事で薬を飲むことに成功している。これはなんと3ヶ月間も飲み忘れがない。(本当は1日だけサボっているが、細かく自分を律するのは病気に良くないので目をつむる事とした。)

先天的脳の癖

 発達障害とは脳の癖のようなものだと先生が言っていた。私はADHDと診断された。うまくやれないことが大人になってから増えたからである。

 例えば、衝動性が強く、衝動的に関係を切ったり、おおらかになったと思えば悲嘆したり、これは何ともトンチンカンで、今の地球の天気のよう。

 私が地球の天気を操っているのかもしれない。これはもちろんジョークである。

 そんな私の幼少期は少し他と違っていた。

転がっていく他と“違う”を取りこぼしてしまった今

 小さな頃から大きな音が苦手だった、花火や太鼓、全てが怖くて仕方なかった、首元が詰まる服は着れなかったり、手袋ができなかったり、感覚過敏は至る所に転がっていた。

私が草を触る理由

 私は本当にひょうきんな子どもで常に変な事をしていた、草をもぎって両手いっぱいに学校へ持っていったり、授業中に前を通る国道を走る車の色ばかり数えていたり。
 時間の理屈が理解できなくて、授業が50分で終わる事、必ず決まった時間から始まることに気づいたのが高校生になってからな事。
 そして、決まった曜日に決まったテレビがやると言う事に気づかなかったこと。

 できない分からないはそこら辺に転がっていたけれど、転がっていることに気付いてはいたが、それを自分も誰も拾わないまま、そういう子もいるとした結果。私の発達障害は大人になり悪化してしまった。昔は今よりも精神的なことへのハードルは高かったのだ。

 そうして、そのままを維持してしまった私は気付く。大人になるとそういう人もいる、は通用しなくなる事に。
 
 私はそこらに生えている草を触る。その理由はその草がそこにある事を確かめたいのと、どんな触り心地か知りたいからである。

 ザラザラ?サラサラ?ちくちく?ふわふわ?触らなければ分からない、分からないのはムズムズする、そうして草を触る。

 都会で草を触っているのは庭師か樹木医か、私か、私と同じあなたぐらいである。

 前に人と大喧嘩した時、私の吐き捨てた捨て台詞が「私は虫は怖くないし、草も触る。あなたとは価値観が違うんだ」だった。
 変な話である。草なんて誰が触っていても別に構わないのに。

私が耳を塞ぐのは

 大人になって、特に困ったのは聴覚過敏だ。

 大人の私が救急車の音で耳を塞ぐのは不謹慎で良くないことのように思われるし、子どもの泣き声や金切り声を我慢できないのは大人として心が狭いと思われる。

 それでも私は救急車が横を通れば耳を塞いでしまうし、金切り声の子どもがいれば涙ぐんでしまう、音が耳をえぐるのだ。

音はナイフのように耳を刻む。

 そんな私の耳はうさぎのように音をよく拾うくせに、取捨選択はうんと下手で、下手すぎて、音が多いところでは何も聞き取れなかったり、自分の声がわからなくなってトンチンカンな事を言ったりするので、度々困ることがある。

 でも、幸いにも周りに恵まれて、トンチンカンな事を言っても全てがジョークとなるので心健やかに今は生きることができている。

ふふ……騒がしいな……。なんて、本当はそんな事思えないぐらいの音の波だが、音のサーファーとしてそれを乗りこなしているフリをしている。

自分を傷つけてしまう言い訳

 私の自傷は小学生の頃忘れもしない5年生の頃に始まった。
 昭和な父からの女はこうしろという暴力暴言に耐えることが出来ず、初めは反抗的な気分でしていた、「お父さん、貴方のせいで今私はこうなってているんだよ、お父さん、少しでも私に寛容になって、お父さん、殴らないで、お父さん、愛して。」
 そんな幼い心からの始まりだった。

終わらない自傷、追加される薬

 それは中学に上がっても高校に上がっても大人になってもやめることは出来なかった。
 大人になってからは家庭から出たにも関わらず、人間関係の歪みでしてしまいたくなって、結局してしまい、関係が歪んでしまったり、終わってしまったり。

 その上、気分が上がる薬を処方されたら、意志の弱さから手を出してしまったり。

しないようにするための、工夫

 長い間してしまっていたものが、パッとはやめられず、辛さからしてしまうのを、人にやめて欲しいと言われて一年我慢した。我慢できた。
 嫌われたくないという思いが強く我慢したが、それも、もうどうでも良くなってしまう。
 
 わたしの自傷行為は試し行動かもしれない。そう思うと自分を恥じてしまう。悲しき嫌らしく最低な生き物。

 私の傷を見たことがある人はこの世で2人だけである。

私は人間である、それは誰にも覆せない権利である

 上述したように私はほんの少し人と違う。ここには書けないたくさんの変なところのせいで、今は障害者雇用で働いている。やっていることは健常者と変わりないただの事務である。

 時折、自分が人間ではなく、普通じゃなく当たり前じゃないことに苦悩し涙することがあるが、今では別にそれもいいだろうと思えるようになってきた。
 
 なぜなら私は紛うことなき人から生まれた人太郎だからだ。
 桃から生まれた桃太郎も人として育てられたのだから、人から生まれた人太郎も人なのである。 

 人だから苦悩するし、人だから嬉しい。人に生まれてよかったと今では思う。

 それは私が切り拓いた道と周りのサポートのおかげである。行政のサポートは出来る限り使わせていただいた。

耳を塞ぎ草を触る自分を恥ずかしく思うか

 たくさん自分の障害のことを話したが、書き終わって思うのは耳を塞ぎ、草を触り自分を傷付ける自分は全く恥ずかしくないと言うこと。
 いや少し嘘、自分を傷付ける自分は少し恥ずかしい。
 ただ変ちくりんで陽気で変なやつで面白いとは思う事。

 またすぐに鬱の波が来て、こんな自分を嫌いになったら、この自己紹介noteを読み返そうと思う。

 私は変でおかしくって、人と違うから、だから私は面白いのである。私は障害を持っている。それは私の悪いレッテルではない。それは私の太鼓判なのである。
 私は耳を塞ぎ草を触る。自分を傷つけながら。そうして、そうやって現実から離れたり近づいたり、上手いことやっていく。

これを読んだあなたに最後のお願い

 最後のお願いだなんて少し図々しいが、最後にここまで読んでくれた心優しきあなたに、お願いがある。街で耳を塞いでいる人や、草を触っている人がいても何も言わないであげてほしい。

 変な人だと思ってくれて構わない。
 でも、あなたに危害は加えない。私はあなたを襲ったりしない、だから怯えないで欲しい。

 私は人である、あなたと同じ、変わらない人である。仲良くしてください。

 私は明日も耳を塞いで草を触る。自分を傷付ける行為は極力控えて、明日も私らしく私のように私として。

(必ず手洗いを徹底して薬を飲み忘れないように)

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