「美しい」って何なんだ
日が沈むころ
白い砂で有名なビーチでぼんやりしていると
子供を三人連れた夫婦がやってきた
父親はなぜか大量のゴミを持参しており
ビーチの入り口に備え付けられていた
既に溢れかえっているゴミ箱の横に
何の躊躇もなくドサッと置いて浜へ歩いて行った
「白ーい!」
と言って砂を触ろうとする子供めがけて
「汚いから触ったらダメ!」
と怒る母親
海辺近くまで移動していそいそと花火を出し
子供たちと夏の夜を楽しみ始めた
「わあ、綺麗だねー」
なんて。
奇麗、きれいだけどさ
なんか、なあ…
遠くパチパチ瞬くその花火を見ながら
そもそも奇麗とか美しいって
どういう状態なのかを思考し始める
自分にとっての「美しい」とは何か
どんな物や何に対して「美しい」と感じるのか
そしてその
美しかったり醜かったりを感じる世界や
それによって応じた曖昧な心の揺れは
自分が感じているように他の人も感じているものなのか
身近なところから考えてみる
シャッターを切るのは 心惹かれる情景に出会った時
レタッチするのは よりその時感じた情景に近づけるため
自分が美しいと感じたその一瞬に
そして 結果
「自分が見ている世界は自分自身の心の投影」
であり
「生み出す作品は全て心象風景」
話が逸れるが
同じ景色を見たり同じ体験をしたとしても
各個人で全く違う経験になったりする
違う景色が見え、または切り取り
違う感情を伴い
違った結末や異なる出来事を引き起こす
そして千差万別の創作物が生み出される
その工程を経て
より一層、美しいと感じる対象物は
それぞれで枝分かれしていくのかな
そして自分が美しいと感じた世界を
どんなに「見える化」したところで
自分と同じ見え方で他の人が
その世界を感じ取ることは無いんだろうけど
貰ったフィードバックからまた違う世界を感じ取ったり
自分の生きている世界の狭さだったり
特殊さだったりに気づくのだから
それはそれで無意味では無いんだろう
生が続く以上
自分の見えている世界はまだ発展途上で
明日にはどんな風景を美しいと思い
切り取った情景に心象を投影し
どんな感情に繋がって
何を求めて歩んでいくかはわからないが
今のところ、自分にとっての「美しい」は
「物語を伴って存在する全て」だと何となく気づいた
無生物であっても
何某かの物語や感情が見え隠れすると
途端に美しい(愛おしい)になって
シャッターを切ってしまうのよね
一般的は美しいとされない
モノだったり風景であることの方が多いのだけれど
他人の感じる「美しい」に照準を合わせる必要は無い
自分が心から「美しい」と感じていれば
それで良いのだ。