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眠れない夜には『モモ』を読む(2)
前回はミヒャエル・エンデの『モモ』の登場人物の魅力と、テーマが「時間」であることを紹介した。
今回はテーマである「時間」をめぐって考えたことを述べてみたい。
時間とは、生きるということ
浮浪児の少女モモは、持たざる者である。
衣食住を満足に得ることができないでいた。
服はボロボロ、住まいは円形劇場の一隅。食事はというと、円形劇場に集う親切な人びとからの差し入れで賄っていた。
そんな持たざる者モモが、唯一持っているもの、それもふんだんに持っているもがあった。
「時間」である。
なんであれ、時間というものがひつようなことがあります-それに時間ならば、これだけはモモがふんだんにもっているものなのです。
モモは自らの時間を使って、たくさんの人びとの話に耳を傾けたのだ。
時間こそが、モモが聞く力を最大限に発揮するために必要とするものなのである。
あらためて時間とはなんだろうか?
1年は365日で、1日は24時間で、1時間は60分で、1分は60秒。
ぼくたちは、時間というものは客観的に計測され、管理できるものであると考えている。
ほんとうの時間というものは、時計やカレンダーではかれるものではないのです。
『モモ』の作者であるミヒャエル・エンデは、時間を客観的に測ってもあまり意味はないというのだ。
なぜか?
というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
生命科学研究者の高橋祥子は、著書『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』のなかで、時間について次のように述べている。
二次元における距離の概念が一点ではなく二点以上存在することで初めて成り立つように、「二つ以上の異なる性質を持つ変化」を比較することで初めて時間を認識できる
例えば、ぼくはよく「子どもの頃よりも1日が過ぎていくのが早くなった」と思うことがある。
この場合、1日という時間に起こる生命変化(1日分の歳をとる)は同じであるが、その同じ時間に行う行動変化に違いがあるため、同じ1日という時間の体感が異なってくるのだ。
幼少期の頃の1日は、朝起きて、朝ごはんを食べて、遊んで、昼ごはんを食べて、遊んで、お風呂に入って、夜ご飯を食べて寝るという内容でおよそ構成されていた。一つひとつの時間にゆとりがあり、多くの経験を積むことができていた。そんな記憶がある。
一方、大人になった今の1日は、朝起きて、朝ごはんを準備して、食べて、子どもを保育園に送って、通勤して、仕事して、お昼ご飯を食べて、仕事して、子どもをお迎えに行って、お風呂に子どもを入れて、自分も入って、夜ご飯を準備して、食べて、洗濯をして、食器洗いをして、子どもと自分の歯磨きをして、一緒に寝るという内容でおよそ構成されている。せわしないわりには、経験の蓄積の実感に乏しい。
幼少期と大人となった今では、起きている時間に起こる行動変化の量(行動量ではない)に大きな違いがあるのだ。
エンデの語りに戻れば、「時間とは、生きるということ、そのもの」であり、「人のいのちは心を住みかとしている」のである。
自分の時間をどうするかは、自分で決めなければならない
『モモ』の物語においては、時間貯蓄銀行を経営する灰色の男たちに唆されて、時間を節約し、仕事を効率化することで経済的な豊かさを手に入れる人びとの姿が描かれている。
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。
時間の節約は、こころのゆとりを奪っていくのだ。
そのことを身をもって知ったモモは、時間を司る賢者マイスター・ホラに対して懇願する。「時間泥棒」である灰色の男たちがこれ以上人間の時間を奪えないようにできないのか、と。
マイスター・ホラは答える。
いや、それはできないのだ。というのはな、人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。わたしにできることは、時間をわけてやることだけだ。
ぼくたちには時間が分け与えられている。
ぼくたち一人ひとりは寿命は違うかもしれないが、1年は365日であり、1日は24時間であることに変わりはない。
この分け与えられた時間の使い方・過ごし方は、自分自身で決定しなくてはならないのだ。
茨木のり子風に言えば、「自分の時間くらい 自分で守れ 馬鹿者よ」ということだ。
生命科学研究者の高橋も次のように述べている。
時間の過ごし方は個人によって違うため、他人や他の対象と比較するのではなく、自分自身にとって重要な時間の使い方とは何かに集中することで、真にやるべきことが見えてくることが多い・・・(中略)・・・自分が生まれてから死ぬまでの「生命変化」や自分の「行動変化」を軸に、自分がどうありたいかを考え、どう過ごすかを決めるほうが生きやすくなる
資本主義社会における豊かさの陥穽
ところで近年、ビジネス書で人気を博している考え方に、エッセンシャル思考やパレートの法則という人生効率化戦略がある。
自分にとっての最重点課題だけに集中するための思考方法がエッセンシャル思考であり、2割の労力で8割の成果を出すというのがパレートの法則だと紹介されている。
重要な仕事以外は引き受けるな、会社の飲み会はいくな、君に友達はいらない。効率的に稼げ、浪費をするな、生活費を抑えろ、効率的に投資をしろ、そのさきに自分自身のための豊かな人生がある。それをを生きろ。
単純明快で合理的であると思う。こんな風になかなか生きられないから憧れもする。
しかし同時に、完全には同意し難いとも思う。
なんでだろう?
理由の一つは、日々のさまざまな行動が「豊かな人生」という目的に向けた手段としてモノ化されていると感じるからだ。
日々のさまざまな行動を、ある目的のための合目的的で効率的な手段とすることは計画的で支持を得やすい考え方だ。
でも、こうした思考方法は、資本主義社会においては経済合理性の追求へと容易に転化してしまう。
そのうちにいつか金がたまったら、おれはじぶんの仕事におさらばして、なにかべつのことをやるよ。
これは『モモ』に出てくる左官屋のニコラの言葉だが、ぼくたちの日々の口癖にはなっていないだろうか?
豊かな人生にはお金が必要であり、お金を稼ぐためには嫌な仕事でも引き受けるしかない。いつかお金が貯まったら、本当にやりたいことをして豊かな人生を生きていく。
ぼくたちは、大人になる過程で「豊かな人生とは、お金がある人生である」という思想を刷り込まれてしまっていることに気づく。
灰色の男もいう。
人生でだいじなことはひとつしかない。…(中略)…それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金もちになった人間には、そのほかのもの-友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでにあつまってくるものだ。
資本主義社会において合目的的に効率的に豊かな人生を追求すれば、それは経済的な成功へと逢着するのである。
その結果、生きることと働くことの間に倒錯現象が起こる。
アナキストの政治学者・栗原泰の主張が歯切れがいい(『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』)。
いまや大学は就職のための知的商品の陳列場だ。それを汚すものがいれば、即排除。大学の商品価値を下げるものはたたきだせ。大学の浄化だ。ムダはいらない。不浄はいらない。大学の目的が就職活動に収斂されていく。成果をあげろ。人間の思考が閉ざされる。学生たちの人生がはじめから決まった目的に括りつけられる。労働の秩序に囲いこまれてしまうのだ。われわれははたらくために生きている。
生きるために働くということから、働くために生きるということへとひっくり返るのだ。
資本主義社会において人生の豊かさを手に入れるためには、絶えずいまの豊かさ=自分の時間を、将来の豊かさ=お金に転化させなければならないと誰もが思い込んでしまう。
資本主義社会における豊かさの陥穽(落とし穴)に落ちてしまったら、なかなかそこから這い上がることは困難である。
落とし穴の中は、蟻地獄なのだ。
この世界を人間のすむよちもないようにしてしまったのは、人間じしんじゃないか。
灰色の男の断末魔の叫びは、今日においてもこだましている。
他者と分かち合えるのでなければ
エッセンシャル思考的に生きることが正しくないとぼくが感じるもう一つの理由は、世界は自分を中心に成立しており、自分を中心とした世界を完成させるには、能動的に生きなければならないという思想にちょっとした違和感があるからだ。
例えば、「仕事を引き受ける」というのは、能動的な行動であると同時に受動的な行動でもある。「わたしは仕事を引き受ける」と言えば能動的になるし、「その仕事はわたしに引き受けられた」と言えば受動的になる。
ところが、稀ではあるが、「その仕事がわたしにやってきた」と思う仕事に出会うことがある。
これは中動的な考え方だ。中動的であるとは、能動的と受動的の間にある考え方である。自己の明確な意識でもなく、他者の明確な意識でもなく、ふっとやってくるという感じだ。
自己の選択というものは、能動的に決める場合もあれば、受動的に決められる場合もあれば、はたまた中動的にやってくる場合もある。
他者と共存するうえで利他性ということが話題になることがあるが、本当の意味での利他性は中動態的なあり様をしているのではないか。
モモは周囲の人びとが多忙さにより経済的に豊かになる中で、気づいたのだ。「もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、それをもっているがために破滅してしまうような、そういう富があるということ」、をである。
どれだけ時間を持っていても、他者と分かち合えるのでなければ、孤独に押し潰されてしまう。モモがそうだった。
どれだけお金を持っていても、他者と分かち合えるのでなければ、精神が押し潰されてしまう。ジジがそうだった。
他者と分かち合える喜びに気づくとき、その喜びは与えるのでもなければ、与えられるのでもなく、やってくるものだ。
関係の中にある不思議な現象の魅力を想起するとき、ぼくたちは誰か-家族、友だち、恋人、知人などなど-に会いたくなる。
灰色の男たちとのたたかいにおいて、寂しさや不安など自分のことばかりを考えていたとき、モモは逃げたくてたまらなかった。
けれども、危険に晒されている友だちのことを考えたら、モモには勇気と自信がみなぎってきたのだ。
ぼくたちは、社会的に成功しなくても、金持ちにならなくても、他者のことを考えることができる。
社会的に成功しないと他者のことを考えられないとしたら、それは豊かな人生でもなんでもない。
ときどきふと誰かのことを考えるのであれば、ときどきふと誰かに会いたくなるのであれば、人生の豊かさはすでにそこにある。やってきてるのだ。
せめてそれを感じられるだけの時間、こころのゆとりを取り戻したい。
眠れない夜に『モモ』を読む理由
でも、長い人生のなかでは、こころにゆとりが必要だなんてことはすぐに忘れてしまうものだ。
エンデは物語の最後を次のように締めくくっている。
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」
未来は常に過去になる。
願った未来が、その通りの過去となるとは限らない。
むしろそうならないことの方が多い。
言い訳なら山ほど準備している。
でも、言い訳をどれだけ並べても豊かな人生と交換できるわけではないことはわかっている。
そんなことはわかりきっているのだ。
だから、ぼくは眠れない夜に『モモ』を読む。
大事なことを思い出すために。
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