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ケアを共にするということ

カナダのジャーナリストであるナオミ・クラインは、著書『地球が燃えている』において、気候変動の危機から脱するためには、あらゆるレベルで「ケアとリペア(世話と修復)」の世界観への転換が必要であることを訴えている。

土地を修復し、自分の周りのものや人との関係を修復する。そして、恐れを乗り越え、それぞれの国の中での関係性を修復し、国どうしの関係性も修復しなければならない。

日本でケアと言えば、保育などの福祉や介護をイメージする人が多いと思われる。

しかしながら、クラインの言うケアは、周囲の人々との関係にとどまらず、土地との関係や国どうしの関係も含んでいる。

ケアとは何か?

フェミニズム政治理論を専門とするジョアン・C・トロントは、ケアを次のように定義している。

もっとも一般的な意味において、ケアは人類的な活動a species activityであり、わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境のことであり、生命を維持するための複雑な網の目へと、わたしたちが編みこもうとする、あらゆるものを含んでいる。

ここに示されているのは、世界とはあらゆるものの関係性であり、ケアとはより善い世界をつくるためのあらゆる活動であるということである。その意味で、ケアは「常に関係的」であるのだ。

ケアに求められる4つのこと

十分なケアが行われるためには、次の4つが互いにしっかりと噛み合うことが必要である。

❶関心を向けること Caring about
関心を向けること、すなわち相手のニーズを見極めることが、ケアの出発点となる。赤ちゃんが泣いているのは、お腹が空いているからなのか、抱っこして欲しいからなのか?まずはニーズを見極めることが必要だ。

❷配慮すること Caring for
次に、責任を引き受け、何かがなされなければならないと認識することが必要だ。赤ちゃんが泣いているとしても、それをないものとして無視すればケアが始まることはない。

❸ケアを提供すること Caregiving
ニーズを見極め、その責任を引き受けたら、ようやく次にケアを提供するという実際の任務が必要となる。お腹が空いていて赤ちゃんが泣いている場合、ミルクをつくり、飲ませるという任務を自ら実行しなければならない(あるいは実行者を探さなければならない)。

❹ケアを受け取ること Care-receiving
ケアは、その必要が満たされるまでは、完成しない。ケアを受け取った者からの応答を確認する必要がある。ニーズが満たされたどうかを知るためには、ケアのPDCAサイクルを回さなければならない。つまり、ケアの状況やそこに配分された資源を再度検討し、ケアを改善し、さらにそこから新たなニーズを見出し、次のケアにつなげていくというプロセスの中で、ケアの必要が満たされたかどうかを確認するのである。

ケアと政治

トロントは言う。

このように、ケアは一連の複雑なプロセスなのです。そして、そのプロセスを通じて、わたしたちが何に注意を向け、いかに責任を考え、わたしたちが何をし、わたしたちを取り囲む世界にどれほど敏感になり、そして、人生にとって何が重要だと考えるのかが、決まっていきます。つまり、民主主義が機能しているならば、注意深く、責任ある、有能で、敏感なひとたちで満たされるでしょう。

民主主義が機能していれば、ケアも充実するという意味において、ケアは政治的である。ただし、トロントによれば、これは「大文字の政治」を指す。

それに対して、「小文字の政治」とは、「日々の生活のなかで行われている政治」を意味する。

日常生活は政治的なのです。なぜなら、すべてのケア実践、すなわち、あるニーズへの一つひとつの応答には、権力関係が含まれるからです。

赤ちゃんにとって親は、ケア提供者であると同時に、悲劇的な権力者である場合もあり得る。「美味しいご飯を」と思いながら食事を与えつつ、思うような反応が得られないと、「もう食べなくていいよ!他に食べるものはないからね!」と生殺与奪の権利を親が持っているかのように振る舞ってしまうことは、よくあるのではないだろうか?

歴史的に見れば、民主主義は「大文字の政治」と「小文字の政治」を、公と私という形で区別し、「小文字の政治」である日常生活におけるケアを一部の人びとに押し付けてきた。

ここに、民主主義とケアのパラドックスが潜んでいるとトロントは見る。すなわち、「民主主義は人びとが平等であることを要請するものの、ケアは、そのほとんどが、不平等なもの」であると言うのだ。

だが、「民主主義は、人びとがより人間らしく、よりケアに満ちた生活を送ろうとするのを支援するためのシステム」であると考えるならば、ケアの平等性を追求しなければならない。

ケアから考える新しい民主主義

「ケアに満ちた民主主義」は、新しい民主主義の形であると言えよう。

とはいえ、ケアに満ちた民主主義は、実現可能なのだろうか?

ケアの平等化を考える上で大切なことは、次の点である。

わたしたちが、平等化しなければならないものは、ケア提供という行為そのものではなく、ケアに対する責任であり、そしてその前提条件として、いかにしてその責任が[社会のなかで]配分されるべきかについての議論なのです。
平等は、民主的な市民の出発点ではありません。平等は、すべての市民が市民としての「アイデンティティ」を通じて達成するものではなく、生涯のなかで、みなで共に行う活動を通じて達成されるものなのです。民主的な市民性が真に包摂的であるためには、わたしたちは、ケア活動によって共に平等へと進めるのだと認識しなければなりません。−強調は引用者

以上を踏まえトロントは、新たな民主主義の定義を導き出す。

民主主義は、ケア責任者の配分に関わるものであり、あらゆるひとが、できるかぎり完全に、こうしたケアの配分に参加できることを保障する。

「ケアを共にすること」

一言で言えば、これが新たな民主主義の理念となるのだ。

ケアに満ちた民主主義は、その実現のためにぼくたちに次の2点を要請する。

❶ケアに関心を向け始めること
❷ケアの責任の配分について再考すること

しかしながら現実には、「民主的なケア」を免れるエクスキューズが氾濫している。

「わたしはケア活動にまったく向いていない」

自分にはその能力がないと主張することが、ケアを引き受けない言い訳として使用されている。

この言い訳を多用するのは圧倒的に男性であり、ケアは女性向きであると言いたいわけだ。あるいは、性別分業(役割分担)だと言いたいのである。

しかしながら、女性や家事使用人がケアに適しているように見えるのは、そうするように歴史的・文化的に役割が期待され、固定化されてきたからに他ならない。

真実は、「ケアは実践を要する」ということである。

ケア活動に現在、向いていないというひとたちは、ケアをもっとすることによって、ケアをより良くこなせるようになれます。もしわたしたちが、ケアに満ちた民主主義を生きることを望むなら、わたしたちの一人ひとりが、ケアをより良くするようにならなければなりません。そしてそうなる最善の方法は、もっとケアをすることです。

歴史的・文化的に形成されているバイアスに基づいて「しない言い訳」をするのではなく、「やる」。実践しなければ、ケアに成功し、自信をつけることはない。

こうした実践重視の思考は、近年のビジネス書でもよく目にするものであり、ビジネスマンに親和性があるように思える。

「わたしは仕事で忙しい」

ところが、ケアに携わらないビジネスマンは、「わたしは仕事で忙しい」「わたしはケアをする以上に経済的な貢献を果たせている」ということを苦々しく主張する。

この主張には、「ケア実践を劣った義務であるかのように刻印してしまう」という問題が潜んでいる。

ケアに満ちた民主主義は、「あらゆるひとに、より少なく働くこと、つまり、日々のケア実践にある一定の時間を割くように要請」する。

働き方改革やワーク・ライフバランスといった課題も、「共にケアする」というケア実践の文脈でも語られなければならない。

一人ひとりがケアの責任を引き受け、ケアに参加しなければ、さまざまなケアにとってより本質的にはどのような社会的な支援が必要であるかといったことは、見えてこないだろう。

「わたしは、自分の家族の世話をしている」「自分自身のことは自分でする」

他人に迷惑をかけないように自分自身をケアし、自分の家族のケアをすることで、ぼくたちは精一杯だ。

けれども自分自身のケアや家族のケアを本当に自分自身と家族の力だけで行える人はどれだけいるだろうか?

もちろんゼロだ。衣食住をすべて自力で行える人なんていない。自然環境からのケアの恩恵を受けることなく、生きている人なんていない。

それなのに、ぼくたちはなぜかケアを考えるときに、それは私的な領域の課題であると認識してしまう。

「大文字の政治」とそれと相互補完的である市場原理主義は、ケアを公私二元論で語ることで、ケアを「自分自身と自分の家族のケア」へと矮小化してきた。

そのなかで、日常の生活を支える他者の姿を不可視化してきたのだ。

ケアに満ちた民主主義は、他者についても関心を払うことを要請するのであり、それぞれが私的な領域に止まることを放置しないのである。

民主的なケアへの変革

民主的なケアへの変革を行うためには、推進しなければならない多くのポイントがある。

❶多元主義
人びとは、自分たちが望むようにケアし、ケアされることができなければならない。人生には、多くのタイプのケアが存在している。

❷ものの考え方・見方そのものの転換
一人ひとりのニーズは異なっているため、ケアを受け取る立場から、ケアを見始めなければならない。すべての人の個々の選考が大切にされるよう、諸制度や実践を組み立てることが求められる。

❸ニーズの多様性と遍在性への気づき
高いニーズを持っているということは手がかかるということであり、したがって市民としての価値が低いと考えてはいけない。多様性の中にある遍在性(普遍性)にこそ注意を向けなければならない。

❹ケアは複雑である
対関係は、支配関係・上下関係を生むおそれがあることを認識してく必要がある。実際のケアは複雑な関係性のなかで行われており、その物語においてケア提供者とケアの受け手のことを考えなければならない。



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