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予測できない時代の生き方とは?ー世界の終わりとハードボイルドワンダーランド(村上春樹)


わたしはよく、夢を見る。
行ったことがないはずの場所に立っていることもある。それも、鮮明なのだ。
なぜかはわからない。
そのあとインターネットで調べると、実際に夢で見たその風景や、建物がある。
どうしてなのか?

わたしは、行ったことも見たこともないのだ。
どこかや何かの本で見たことがあったから、記憶の隅にしわまれていたものがふと夢の中に出てきただけかもしれない。

でももしかしたら、そうじゃないのかもしれない。
自分が今見ている世界が、本当の、現実の世界なのだろうか?何が自分の作っている"現実"なのか?

潜在意識と表層意識の壁は、私たちが思っている以上に薄くて頼りない。
だからこそ、私たちが『自己認識』とか『アイデンティファイ』するとか、そういうことに夢は手を貸してくれる。

夢の中で起きていることに関して、フロイトは言う。

『夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である。』


ハードボイルドワンダーランドに住む「わたし」、世界の終わりに住む「僕」と「影」。
どちらが潜在意識で、どちらが表層意識なのか。
徐々に記憶が混乱してくる描写は、デジャヴを見ているような感覚だった。

わたしが好きな映画である『インセプション』や『マトリックス』にも似ている。
そしてこれらの映画においても、夢やデジャヴは大きな意味を持っている。


心理学を学んでいた頃、簡単に言えば催眠療法のような、無意識にアクセスし過去の記憶をたぐり寄せてトラウマや悲しみを解放するワークを何度も経験した。
自分が体験する側でも、自分が相手を導く側でもかなり体力を使う大きな変化を起こすプロセスだ。気づけば4時間経っていることもあった。
それくらい、無意識の層は何層にも分かれており、縦にも横にも前にも後ろにも際限がない。
いわば、時間や空間という観念がないのだ。
その中からトラウマや深い悲しみ、怒りを起こしている小さな記憶を見つけ出していく。

わたしの場合は、イメージと共に感情が溢れてきた経験がある。見たこともない教会、闘争、そういったイメージがわいてきたことがある。
人によって、音が聞こえた方を見たら見つけた、イメージがふとわいてきた、など、さまざまな見つけ方をする。
しかし、これは意識では絶対にできない。無意識の力を信じて、見つけてもらうしかないのだ。

そう、何より無意識に仕事をしてもらうには、信じることが重要なキーになる。
本書の『わたし』は、ハードボイルドワンダーランドで太った女の子に言われる。

「信じるのよ。さっきも言ったでしょ?信じていれば怖いことなんて何もないのよ。楽しい思い出や、人を愛したことや、泣いたことや、子供の頃のことや、将来の計画や、好きな音楽や、そんな何でもいいわ」


そして彼の"世界の終わり"で「ぼく」は一角獣が吸い取っていった古い夢を読む。古い夢とは、多くの人間による、多くの失われた記憶。喜びも悲しみも、憎悪もすべてが詰まっている、記憶だ。
彼は表層の世界で傷つき、傷つけあい、その喜びも悲しみも、自らの無意識下で存在している一角獣や森、自然という尊く弱い存在(=無防備な子どものような、本来の自分自身)に全て溜め込み、昇華していたのだ。

最後、
ハードボイルドワンダーランドに生きる「わたし」は、危険な脳実験を知らぬ間に進められていたことにより、"世界の終わり"に住み続けることになる。
あくまでもスイッチを押したのは自分ではなかったが、無意識の自分である「ぼく」は、うまくやってのけた。完全な意識の世界で心を捨て、「わたし」と一体化したのだ。
世界の終わりとは、憎しみや争いもない、完全な世界だ。

心を取り扱うのは、とても難しい。
心を捨てることが、完全なるユートピアで生きることを指すのであれば、わたしはユートピアで生きることはできないだろうと思う。
わたしにはどうしようもなく喜びや幸福を求める心がある。それを捨てると言うことはわたしの形がなくなり、わたしと言う個人が消えてしまうことと同意なのだ。
戦いや憎しみや欲望があるから、喜びや至福や愛情がある、と「影」は言った。

心を持って生きることは、喜びや至福や愛情を肯定して生きることは、同時に戦いや憎しみや欲望を肯定しているのだと。

戦争は、いつもどこかで起きているし、暴力もまたしかりだ。
でも、さっきの論理で言えば、それはおそらく、今ここにいる自分が起こしている戦争であり暴力といえるだろう。
あなたが何かを愛したり喜びを抱く心を捨てない限り、世界の悲しみも憎しみも終わらないということだ。

どちらの側に傾きやすいか?ただその違いだけだ。
だから、バランスをとる意味合いでの"中庸"というのは、真ん中に立つことではないのだ。

思想家・鶴見俊輔は、こう言っている。


「「中庸」というのは、棒の真ん中をぽんとたたくことじゃない。自分がたたくときに、どっちかに寄りやすいと意識して打つと、それが中庸。自分がどっちにぶれやすいかを意識に置くってことだ。」


自分が転がりやすいのは慈愛か、喜びか、慈悲か、悲しみか、嫉妬か、妬みか、暴力かーーー

そう言ったことをひたすらに考え、内省を促す。自分は今どこに立っているのか理解する。
そして最後は、自分を信じるのだ。
そうすれば、無意識も必ず手を貸してくれる。

予測できない時代を生きていくというのは、そういうことを繰り返し考えて答えを出していくことなのかもしれない。

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