Mistake

東武東上線から見える景色は、乗り換え前の路線と打って変わって、田舎臭い緑が広がっていた。新田(にった)辻人(つじと)は、地方にある大学に向かっていた。その大学自体は学祭やら、入試説明会やらを謳ってイベントを催しているが、辻人にとっては高校から出された課題の消化のため他ならなかった。
「ねえ、まだ?」
向かいの席に座っている五、六歳くらいの女児が、母親に対して膨れた頬を見せている。車両にあまり人は乗っていないようだった。鮮明に親子の会話が耳に入る。
車掌のアナウンスが入る。辻人の降りる駅だった。液晶案内板も設置されてない電車の到着駅は、アナウンスをよく聞いていないと降りる駅を間違えそうになる。慣れない土地でなら猶更だった。
 駅の出口を出ると、バスロータリーが広がっていた。案内板には、目立つように大学の学祭のお知らせが貼ってある。ちょうど大学行のバスが来ていたので、辻人はそれに乗り込んだ。

 バスを降りると、最寄り駅の込み具合からは考えられないほどの人が居た。「運営ボランティア」と書かれたキャップをかぶった学生たちが、ちらほらと入口からも見えた。腕時計を見ると、九時半を指していた。辻人は大学のパンフレットに目を通しながら、説明会がある教室へ向かった。
「えー、今回は当大学へお越しいただきありがとうございます……」
三十代後半に見える眼鏡をかけた男性職員が、疲れの抜けきっていない目で資料を読み上げ始めた。教務課と書かれたプレートを肩から下げており、猫背具合に拍車をかけていた。説明内容は、パンフレットを読めば理解できることばかりだった。これで高校の課題に取り掛かることが出来る。辻人は説明が終わるなり、すぐさま教室から出ようとした。その時、教室の扉から女学生とぶつかってしまった。辻人の持っていた、パンフレットや資料が床にバラまかれる。
「うおっ」
辻人は驚きのあまり大声が出てしまう。この説明会に来ていた他の学生たちからの視線を感じる。
「いたた、そんなに早く教室でなくてもいいのに」
辻人に対して何も手にしていなかった女学生は、悪びれる節もなくパンパン、と自分のズボンをはたいた。腰には「運営ボランティア」のキャップが、ベルトループに括りつけられていた。
「あれ、つーくん?」
知らない筈の女学生の口から、忌々しいあだ名が聞こえてくる。困惑と恥ずかしさで訳が分からないまま、女学生の顔をじろりと見た。
「え、覚えてない?」
「は? 深(み)月(つき)……?」
辻人は課題の為に適当に大学を選んだことを、心の底から後悔した。

 新田深月の父親は深月の物心がつく前に行方をくらました。深月の質問に対して母はいつも、「他の女でもできたんでしょ」と答えるだけだった。深月にとって、幼い頃の母の記憶として残っているイメージは、やせ細った身体と充血した目と隈。家に居ることはほとんど無かった。
 或る時を境に、仕事が安定したのか祖父母の家から出ることになり、母と二人で住むことになった。
「新しい仕事を見つけたの」
という母は、以前よりも顔色が良くなっていた。
それから母は、夜十時には家に帰ってくるようになった。小学生だった深月は、半開きになった眼を擦りながら、母親の帰りを待った。でもそれは長く続かなかった。
「明日も学校でしょ、早く寝なさい」
見知らぬ男を連れて帰宅してきた母はそう言った。二人は明らかに頬が高揚しており、当時の深月にとっても酒を飲んできていることは、安易に想像がついた。
 それまで夜の楽しみだった、母との会話は少なくなり、代わりに女の声が家に響くようになった。やせ細っていた身体は丸みを帯びた健康的な体になり、充血も隈もない。食事も良い所のお土産や、お惣菜が食卓に並ぶようになった。それ故、深月は母を咎めることが出来なかった。
 深月が中学に通うようになってからは、日によって違う男を連れてくるようになった。この人はある会社の社長さんだの、名のある投資家の人だの、弁護士さんなのだの、紹介をするようになった。男を連れてきた日は、酒もそこそこに出かけていくことも多かったが、家の中で始めることも多かった。中学になってから、以前の古いアパートから高そうな駅前のマンションになった。おそらくしょっちゅう連れ込んでいる男から、金と仕事を貰っているのだろう。未だ出産適齢期の母親にとって、男との交わりは行方不明になった元夫との記憶を流している行為でもあった。
「あ、」
また、別部屋から女の声が聞こえてくる。深月にとって習慣になってしまったそれに、大した思いを馳せることもない。
「いい加減、俺と一緒になったらどうだ」
その日はいつもより寒かった。澄んだ空気に、偽りの愛をぶつける音が厭によく聞こえる。
「だめよ、あの子がいるから……」
深月の思っていた通り、母は実の娘の為に身体を酷使していた。その言葉を聞けただけでも、いつもより深い眠りに入れると思った。
「いいだろ、あんな偶然できた娘、誰が父親か分かったもんじゃない」
もうどの男の声かすら覚えることもやめてしまったが、この時の男の声だけは覚えている。耳栓を取ろうとした深月の腕が止まる。冷たい空気が一層冷えた気がした。
「あら、おめでた婚とも言うのよ。そんなことはいいから、はやく続きをして」
おめでた婚。それはただ、できちゃった結婚を体のいいように言っているだけだった。行方不明にもなる父だったのだから、純粋な愛というものは期待していない。だけれど。
「知り合いから聞いたぞ、あの時他に男が居たんだってな」
「やめて。あの子が聞いてるかもしれないから」
あの子。深月という名前を呼んでくれない事に、こんなに悲壮感を覚えたことはあっただろうか。父の失踪に対して、「他に女ができたんでしょ」と言い放った母親の顔が蘇る。悲しそうでも、悔しそうでもない母の顔。あの表情は自分につらい表情を見せないための、母親としての顔だと思っていた。でもこの男の言葉ですべて分からなくなってしまった。本心からでた、「興味のない」という表情だったとしたら。そしたら、今の自分に何のために男に身体を許して、仕事をしている?
 玄関のドアを開ける。深月はリビングのテーブルに置いてあった、ラッキーストライクとライターを上着のポケットに入れた。別部屋の二人は気づいている様子はない。
午前一時のコンビニは平日ということもあって、人は少なかった。駐車場の隅っこで煙草に火をつけた。真っ白な煙が目の前を舞う。すぐ喉と肺が苦しくなり、げほげほと大げさに咳をする。
「お前、名前は」
コンビニの明かりも入らない暗闇から声が聞こえた。目を凝らしてみると、子供らしき姿がそこにはあった。
「みつ、き」
自分の名前を言っただけなのに、深月の頬には涙が伝っていた。なんでこんなところに子供がいるのかなんて、考えられる頭の中ではなかった。
「なんだよ、煙でも目に入ったのか」
「そう、みたい」
自分のことを辻人、と名乗ったその少年は、深月の表情に驚きながらも、すっかり冷めきった缶コーヒーを深月に差し出した。暗がりに光る少年の眼は、すっかりと日を落としていた。
「これ、飲むかよ」
手渡された缶コーヒーに大きく書かれていた、「ホット」という文字を見て、深月は自嘲交じりに口角を上げた。
「ありがとう」
目が覚めるくらい冷たくて、泥のように苦い筈のコーヒーが、こんなにもあったかく甘く感じたのはこの時だけだった。

 深月はコンビニからそう遠くない、少し年季の入ったアパートに来ていた。アパート名が記されているのであろうアーチ状の入り口が、錆ばかりで鉄の匂いがした。
所々が破けた子供用のガウンを脱ぎながら、辻人は典型的ともいえる丸いちゃぶ台の前に座布団を敷いて座り込んだ。表情は固まっていて、寂しさも悲しさも感じられない。
「ごめんなさい、こんな風に迷惑をかけるなんて」
深月は辻人に事の顛末を話した。もう深月自身が一人で抱え込むことは出来なかった。ただ誰でもいいから吐き出したかったのだ。
「俺も父親いないから」
開けっ放しにされた押し入れには、何年使われたのかもわからない程変形した、ランドセルが無造作に置かれていた。算数のノートらしきものがランドセルの口から落ちており、「四年二組 新田辻人」と書かれている。
「私よりも三つ下なの……」
「まあね」
深月は異様に大人びた小学四年生を見下ろしながら、少し微笑んだ。同じような生き物がいる気がして、少し心が軽くなった。深月はこのキレイとは言えない、1LDKの部屋を心地よく思った。何か昔に戻ったような感覚があった。
深月の両目は未だ腫れたままだったが、落ち着きを取り戻していた。目に着いたそのノートを手に取り、辻人に見せた。辻人は嫌そうな目で深月からそのノートを奪い取った。
「ああ、いなくなったクソオヤジの苗字のまんまなんだ」
辻人は湯気を立てている湯呑を二つ、ちゃぶ台の上に置いた。
「えっ、嘘……」
「まさかお前も同じって言うんじゃねえよな」
「そのまさか……」
深月の苗字も行方不明になった父親のもので、変更手続きをめんどくさがった母親が、そのままにしてしまっていた。
辻人は眉を少し変形させながら、自分が淹れた茶を啜った。
「流石に偶然だろ。新田なんて特に珍しい苗字でもない」
「まあ、それはそうなんだけど……」
二人の間に困惑と恐怖、そして沈黙が訪れた。
「お母さんはどんな人なの?」
辻人は少し怪訝な顔をし、ふう、とため息にも聞こえる一呼吸を置いてから、喋り出した。
「クソ真面目でバカな人だよ」
辻人の表情に怒りや悲愴はなく、ただただ優しそうな目であった。辻人の語る母親は深月にとっても、良い母親だと思えた。辻人は茶飲みを空にすると、押し入れから布団を引っ張り出してきた。
「もう遅いからそこで寝ていいぞ。どうせ俺がここで追い出したら、一晩中外にいるつもりなんだろ」
俺はその辺で寝るから、と辻人は畳の上で横になり始めた。
「ちょっと、流石にそれは申し訳ないから、せめて一緒に寝てよ」
深月はこの時、自分が感じていた寂しさとは別の、母親の感じていたであろう寂しさを感じた。同時に、兄か弟が居たら、こんな感じなのだろうかと思うとすこし面映ゆくなった。
「は、はぁ⁉、そんなので、できるわけないだろ」
やっと表情を崩した辻人に、深月はうれしくなった。ちゃんと年相応の部分があることを確認した深月は、より辻人に親近感を覚えた。
「あ、恥ずかしいんだ」
家に招かれた客側だというのにも関わらず、深月は自分の湧き上がる母性を感じた。挑発するように、ひらひらと掛布団をなびかせる。
「うるせえな、わかったよ」
辻人は恐る恐る布団に入った。普段とは違う温かさが、いつもの布団には充満していた。辻人は深月に対して背を向けて横になる。それをみた深月は、後ろから辻人を抱きしめた。
「ちょ、それは」
「わかってる、でも今はこうさせてほしい」
耳の後ろから囁かれる吐息に、辻人は何も言い返せなかった。二人は自分の中の寂しさに新しい火種が灯るのを感じながら、闇に落ちていった。

「あの時はあんなにちっちゃかったのになあ」
深月と辻人は、大学の近くにある喫茶店に入っていた。深月のラッキーストライクの煙が、店内に充満している。
「大学、出てきてよかったのかよ。ボランティア、途中だったんじゃ」
「ああ、大丈夫。先輩の男と担当の男教師に媚びとけばなんとかなるから」
深月はまた新しい煙草に火をつけた。
「つーくんはもう吸わないの?」
「バカ野郎、こちとら大学受験控えてるんだぞ。余計なこと言うな」
笑いながらうまそうに煙を吸う深月に、辻人がかつて見た面影は感じられない。
「結局、あの生活も長いようで短かったね……」
「その話は……」
「でも、結局こうやって私とお茶しに来てるじゃん。ちょっとは恋しかったんじゃないの?」
「あそこであのままお前に騒がれたら、俺の進路と社会性が真っ暗闇だ。だいたいなんでよりよってこの大学なんだ……」
辻人は顔をしかめながら、コーヒーを啜った。これなら缶コーヒーを飲んでいるのと変わらないな、と思った。
「受かったのがあの大学だけだったからね。高校の時の先生が受けろってうるさかったから。もともと大学なんて行くつもりなかったよ? でも、大学生を体験するのも悪くないかなって」
ふふ、と微笑みながら、深月は角砂糖を三つ入れたコーヒーを口にした。
「本当のお父さん、見つかったんだ」
「は?」
辻人の表情が固まる。深月は先ほどとはかわって真剣な眼差しだった。
「見つかった、というより誰か分かっただけ、かな」
「どういうことだよ。それにだいたい、今更父親のことなんて……」
「私たちが勘違いしてたみたい。あの時見つけたでしょ、つーくんの家でさ」
深月は鞄から、何枚かの写真を取り出した。
「ああ、生まれたばかりの写真な。深月の家にも同じ病院で、同じ男が映ってる写真もあった」
八年前、興味本位で昔のアルバムを見せ合った。生まれたばかりの写真や、ボケて何処か誰かも分からない写真ばっかりだった。ただ数枚だけ、二人の家に押し込まれていた写真に、共通点が見つかってしまった。それは母親の横に居る男だった。それ故、二人は腹違いの姉弟ではないかという事が浮上してきた。二人の母親が残したままにしていた、「新田」という苗字も相まって信憑性を増していた。
「そう、私たちのお父さんはおんなじだった、って二人で笑ったよね」
「それが、深月の出ていった理由だろ」
「怖かったんだ」
ラッキーストライクの灰が、灰皿を逸れてテーブルの上に落ちた。
「あれは間違いだったさ、でもそうでもしなきゃ俺たちの心は荒んだまんまだった」
辻人は深月の身体を想起する。首と背中の弱ささえ蘇ってきてしまった。
「つーくんは悪くないよ。全部私の所為だから」
「ちっ、今更何を言ってるんだ。それで、本当の父親っていうのは?」
煙草の匂いが、より鮮明に匂ってくる。辻人は口寂しさを感じながら、空になったコーヒーカップを覗き込んだ。
「つーくんの家を出てから、母親の会っていた男を調べてたの」
「ふぅん」
辻人はストローの袋をいじり始めた。
「もちろん行方不明になってた男のこともね」
「もったいぶるなよ」
「はは、ごめん。DNA検査したんだけど、違ったんだよね。残ってたその男の私物に髪の毛が着いてたの。母親が地毛が茶色かったし、たぶん間違いないと思う」
深月は緊張しているのか、追加のコーヒーを注文した。
「だから、つーくんと私は腹違いの姉弟でもなんでもないんだ」
「そうなんだ」
店員の持ってきたコーヒーが白い湯気を立てている。深月はそれに角砂糖を四つ入れた。
「んで、本当のお父さんは……」
深月はコーヒーを一口飲んでから、表情を曇らせた。
「亡くなってたの」
「えっ……」
「そう。だから、もう過去の私の状況を誰の所為にもできなくなっちゃった」
「母親はどうしたんだよ」
「高校卒業してから、夜逃げみたいに家を飛び出してきたから連絡も取ってない」
「そうか」
店内のおしゃれなBGMが鳴り響く。周りを見渡すと客は辻人たちだけの様だった。
「だから、これで解放! 誰かに言いたくてしょうがなかった」
深月の表情が明るくなる。わざとらしく口角を上げ、笑いながらまた新しい煙草に火をつけた。
「こんなこと友達とか知り合いとか先生に言ったって、哀しくさせるだけだもん。なんだこいつって思われちゃうし」
「俺もなんだこいつって思ってるけどな」
「えっ、ひどーい。つーくんも同じようなもんじゃん」
「まあそれもそうか」
店内に二人の笑い声がこだまする。辻人は長年心の中にあった取っ掛かりのようなものが、消えた気がした。
「だから、もう気にしなくていいんだよ。つーくんはつーくんの生き方をして」
「一本くれない?」
それを聞いた深月は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「なーんだ、吸いたかったんじゃん。そうなら初めからそう言ってよ」
「そういう気分になっただけだ」
二つの煙が、混ざり合わず気持ちよさそうに空中を舞っていた。

「じゃあ、またね」
「ああ、会えたらな」
辻人は改札を通る。深月はその後ろ姿が見えなくなるまで、辻人の背中を見つめていた。あの時とは違う、大きな背中。今正直に抱きしめることができたなら、どれだけ良かっただろう。辻人の姿が見えなくなる。一人の女と一人の男は、少し哀しい笑みを浮かべながら、大学の教師にする言い訳を考えていた。
 

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