Hollow’s Poolside

「青白おばけの話知ってる?」
早川夢(ゆめ)翔(と)は塩素でごわついた髪の毛を乾かしていると、同じスイミングスクールに通うタケちゃんにそう問いかけられた。
「なにそれ、知らない」
「よくいるんだよ、俺たちの時間にさ、他のとこでずっと泳いだり歩いたりしてるのが」
他のスクール生も、その青白おばけについての話で盛り上がっているようだった。怖いだの、面白いだの、今度話しかけてみるなど声が聞こえてくる。
「へえ、でも普通の人なんでしょ?」
「それがさ、違うんだよ。顔色が凄く青白くて、俺たちが泳いでる様子をずーっと見てるって」
濡れた水着を乾燥機にかけ始める。スイッチを押すと、カタカタと動き始めた。
「変なの」
乾燥機の音がうるさくなっても、タケちゃんは面白そうな顔をして話続けた。
「そんで、俺たちを連れ去ろうとしてるって噂が立ち始めてんだよ」
「なんで僕たちなの?」
「それは知らない。でも今日も居たんだぜ、その青白おばけ」
「へぇ」
夢翔が興味無さそうに荷物をスイミングバッグにしまっているのを見たのか、タケちゃんは退屈そうな顔をした。
「竹原くーん、お母さんが迎えに来てますよー」
夢翔が着替えを済ませて更衣室を出ようとすると、がっしりした体躯の男性コーチが、お迎えのお知らせを告げに更衣室にやってきた。
「コーチ、青白おばけって知ってる?」
タケちゃんは話のターゲットを新しく見つけたようで、再び悪い顔をし始めた。
「知らないなあ、うちにはそんなお化けいないと思うけど」
「なんだあ、コーチも知らないのかあ」
タケちゃんは残念そうな顔をして、コーチに更衣室から連れていかれた。夢翔もその後に着いていくようにして、更衣室を出る。
「ゆめと、じゃあねー!」
タケちゃんはお母さんと手をつないで、さっきまでおばけの話をしていたのを忘れたかのように、楽しそうな顔をしていた。夢翔はなにも言わず、手だけを振って二階の見学ブースに向かった。細長い造りになっている見学ブースの壁には、このスイミングスクールが主催している、キャンプイベントや、強化選手の合宿などの写真が貼られている。
 見学ブースから見えるプールは、いつも入ってる筈なのに、とても小さく見えた。プール内では、夢翔よりも二つ三つ年上の小学校の上級生たちのグループが、準備体操をしていた。見学ブースに置いてあるベンチに腰掛け、夢翔はスイミングバッグから本を一冊取り出した。いつもここで父親が迎えに来るまで、本を読むのが習慣になっている。夢翔は本の世界に入り込んだ。ファンタジーやミステリー、ノンフィクションなど様々な本を読む。今日は新しい本を借りてきたので、いつもより少しわくわくしながら本を開こうとした。その時だった。
「隣、いい、ですか」
短く整えられたボブの黒髪の女性が、夢翔に話しかけてきた。肌はまるで雪のように白く、病的な程だった。元気も抑揚もない声で、一瞬場の温度が下がったような気さえした。見学ブースの入り口に置いてある、アイスの自販機が駆動音を小さく鳴らしている。
「あっ、いいですよ」
夢翔はその女性の顔を見るなり、先ほどの「青白おばけ」について思い出していた。怖くなりそうになるのを我慢して、本を開く。が、全く内容が頭に入ってこない。ちらりと横を見てみると、その女性は見学ブースから、羨ましそうに子供達が泳いでいるのを眺めている。
 その女性はいつもプールに来ている、という青白おばけの噂を裏付けるように、すごくスラっとした体形をしていた。髪の毛も塩素で少し色が抜けている。やはりこの人が、と夢翔は思考を巡らせた。
「夢翔~! いるかー!」
場の空気が一瞬にして安心感で満たされる。夢翔はすぐ父親の声であると判断した。
「お父さん、ここだよ」
すぐベンチから立ち上がり、父親の元へ駆け寄る。
「お、いたいた。今日は少し早く上がれたんだ。何食べたい?」
早川賢嗣(けんじ)は、労働の疲れを見せない満面の笑みで、スーツから煙草の匂いを漂わせた。
「僕、ハンバーガーがいい!」
「またか! じゃあお父さんは何食べようかな~」
見学ブースを去る間際、夢翔はあの女性の表情を窺った。いまだ見学ブースから見えるプールで泳いでる子供達を、曇った眼で見ていた。

「ただいま、お母さん」
日課である仏壇で、夢翔は手を合わせる。リビングにはハンバーガーとポテトの匂いが充満していた。
「今日はお父さんがハンバーガーを買ってきてくれたんだ」
夢翔の母親が写真の中でいつもの様に笑っている。
「夢翔、手洗ったか?」
「あ、今洗う!」
どたどたと洗面所に駆ける夢翔。賢嗣は呆れた顔で、仏壇の前で手を合わせた。
「ただいま、愛実(まなみ)」

「今日、おばけと喋ったんだ」
「おばけ?」
賢嗣はハンバーガーを頬張る手を一瞬止め、眉間にしわを寄せた。
「そう、スイミングによく来てるんだって」
夢翔はポテトに手を伸ばした。
「それって、あの迎えに行ったときに居た女の人?」
「良かった、お父さんにも見えてるなら、おばけじゃないね」
賢嗣はセットのコーラに手を伸ばす。炭酸の刺激が心地いい。
「お父さんには普通の人に見えたけどなあ」
「いつもああやって、プールで泳いでるときも、スクール生の事を見てるんだって」
カサカサとファーストフード店特有の紙袋が擦れる音がする。
「ふうん、何か理由がありそうだな」
「理由?」
ズズッ、と紙コップの中身が無くなる音がした。
「誰にでもそうしてる訳ってのがあるんだよ」
「あるのかなあ」
夢翔はハンバーガーを食べ終わると、満足そうな顔をしてオレンジジュースを流し込んだ。リビングにはハンバーガーとポテトの匂いに混じって、線香の煙が漂っていた。

「今日もいるんだってよ、アレ」
一週間後、スイミングスクールの更衣室で着替えながら、タケちゃんは手首をだらりとたらしながら夢翔にみせた。次のクラスの子供達も更衣室に入ってきて、がやがやとしている。
「この前、見学のとこに居たんだ」
「えっ、まじ? 喋ったのかよ」
「少し……」
そういうとタケちゃんは顔を真っ青にして、焦り出した。
「喋っちまうと、本当に攫われちゃうんだぞ」
「でも僕、お父さんと一緒に帰ったよ」
「今日がその日かも」
更衣室には暖房が掛かっているというのに、タケちゃんは身体をぶるぶると震わせていた。
「おれ、先行ってるわ。じゃあね、ゆめと」
夢翔は着替えを終えると、恐る恐る見学ブースにむかった。いつも座っているベンチに目をやると、既にそのおばけはそこにいた。
 勇気を出して隣に座る。いつものようにバッグから本を出そうとして、この前の賢嗣の言葉を思い出していた。
「何か訳がある」
賢嗣はそう言った。夢翔はこのおばけのことを、ただただそこに居るだけで怖がったし、タケちゃんも周りのスイミングにきている子供達も、同じようにした。
「こんにちは」
だから、声をかけた。偏見と疑いを捨て、初めて会う友達のように声をかけた。
「えっ、あ、こんにちは」
青白い表情だった筈のその女性は、いきなりの事に焦っているのか、少し頬が赤らんでいた。
「僕、早川夢翔っていいます、ここに通う小学三年生です」
夢翔はその女性の眼を見ながら、今年の始めにした自己紹介と同じように、ハキハキと喋った。
「え、あ、私は、」
プールで泳いでいる子供達を見る目とは打って変わって、目は夢翔のことを捉えずにいる。
「城戸(きど)蒼(あおい)、です、最近ここに通っている二十八歳独身です……」
城戸はそう言いながら、自分の姿勢が悪くなるのを感じた。小学生に対して年齢と独身であることまで、口走ってしまったことを後悔した。
「いつもここにくるんですか?」
夢翔はそんな城戸の心情を知ってか知らでか、質問を投げかけた。城戸が夢翔の表情をみると、すこし顔が高揚していて緊張しているようだった。
「まあ、よく来ます」
城戸は少し緊張がほぐれた。小学生と話しているのに、自分も敬語なのが可笑しくなってきた。
「いつも何してるんですか?」
夢翔はすこしうるさくなっている心臓を落ち着かせながら、城戸の「訳」を聞き出そうとする。
「いつも……は、泳いだり歩いたりして、疲れたらここにきてプールを見ています……」
城戸は段々と自分の喉が開いているのを感じた。三単語以上を一気に喋ったのは何時ぶりだろうか。
「じゃあ、僕とほとんど同じだね!」
夢翔はパッと明るい笑顔でそう答えた。
「僕も、スクールが終わったら、着替えてお父さんの迎えがくるまでここにいるんです」
「えらいね、昨日見たけど、お父さんだったんだ」
城戸の口調はいつもより滑らかなものになっていた。
「おばけ……じゃなかった、お姉さんは……」
「おばけ? 私が? まあ、でもしょうがないか……」
城戸は眉毛をへの字にしながら苦笑いする。
「あの、ごめんなさい、プールの友達がお姉さんのことを青白おばけだって言ってて、それで……」
自分の失言に、夢翔は何を言おうとしたのか分からなくなってしまう。
「いいの、大丈夫。ちゃんと考えれば不審者みたいだった」
城戸は自分のお腹をさする。
「私ね、子供産めなかったんだ」
「えっ」
温まってきた雰囲気が、一瞬にして凍り付く。夢翔は城戸の目線が再びプールの方に向いていることに気づいた。
「子供が上手く育たなかった。私が生まれつき身体が弱いってのもあったのかも。だから、もし生まれてたらその子はどんな風に生きていたのかな、って思いながらプールに来るの」
「それじゃあ……」
夢翔は賢嗣との会話を再び思い出す。
「そう、ここに来るスクール生を、羨ましそうにみてた。どんな家族で、どんなお母さんで、好きなものはなんだろう、って」
夢翔は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。悲しくて辛くて、でもどうにもできない歯がゆさが身体を走っていく。
「あ、ごめんね。こんな話面白くないよね。私、帰るから」
城戸はまた曇った眼に戻っていた。夢翔を一瞥して、ベンチから立ち上がる。水着とタオルしか入っていない鞄がいつもより重く感じた。

「おーい、夢翔。迎えに来たぞー」
賢嗣の声がする。夢翔は俯いていた顔を上げ、ベンチを後にする。城戸の所在を確認しようと、あたりに目をやるがもう居なくなっていた。父親の手を取り、スクールバッグを背負う。
「ねえ、お父さん」
賢嗣は涙を精一杯堪えている夢翔を見て、一瞬戸惑う。
「どうしたの」
子供というのは、自分の気持ちを整理するのに時間がかかる。だから、一度待ってあげる。愛実と一緒に読んだ育児本にも、そのような事が書いてあった。
「聞いたの、お姉さんに、ここにいる、わけ、を」
父親が来て安心したのか、夢翔はポロポロと涙をこぼし始めた。
「そしたら、お姉さん、こども、が、できなかった、って」
夢翔が胸を大きく上下させながら泣いているのを見て、賢嗣はもう一つの手で夢翔の手を包んだ。
「うん、それで?」
やさしく、そう問いかける。母親として接することの難しさを痛いほど感じる。
「わから、なくなっちゃって、お母さんは、僕を産んで、よかったのかな、って」
「そうか、そんな事を考えられるようになったんだな」
ぎゅっと、強く、それでいて優しい抱擁。こんな時愛実がいてくれたら、どんなに夢翔の力になってあげれただろうか。
「大丈夫、お父さんは夢翔が居てくれてうれしい。夢翔が居てくれることは、お父さんとお母さんが一緒に願ったことなんだ。だから大丈夫」
「わか、った」
見学ブースに一人の子供の泣き声が響く。それは親の愛からくるものなのか、親のエゴからくるものなのかは分からない。その判断をするのはまだ早いと、賢嗣は擦り減っていく心と夢翔を大事に大事に抱えながら、見えないように涙をこぼした。

夢翔はそこから少し学校を休んだ。賢嗣は体調不良ということにして小学校に伝えた。仕事は休むことが出来なかったため、愛実の母親に見てもらうことにした。
「元気してた? こっちにくるのは久しぶりねえ」
夢翔は祖母の幸代を迎えると、ぎゅっと抱きしめられた。やさしい香りがふわっと広がる。お母さんもこんな匂いだったのかな、と少し考えた。
「今日は渡したいものがあるの」
お茶の置かれたリビングの炬燵で、祖母は使い古されたリュックサックを開いた後、幸代は夢翔にアルバムを手渡した。言われるままそのアルバムを開くと、モノクロでよくわからない画素の荒い写真がいくつかあった。
「それ、夢翔が愛実……お母さんの中に居たときの写真よ」
そこには所謂エコー写真があった。扇状に映し出されている体内映像の中に、小さな人のようなものが写っている。
「僕、こんなに小さかったんだ」
「小さいって思うでしょ? お母さんからしたら、相当大きくて大変なのよ?」
「そうなんだ、重くて大変そう」
「そう、ばあばも愛実を産んだ時大変だったわ。お腹を蹴ったりしたりして」
「そんなにつらいなら、どうして産むの?」
幸代はなんとなく、夢翔の休んだ理由が分かった気がした。幸代はほうじ茶を一口飲んでから、喋り始めた。
「それはね、お腹の中の子が愛おしくてたまらないからだよ。体調だったり、気分が悪くなったり大変なことの方が多いけどねえ、自分の中にかけがえのない命があるって考えると、頑張れちゃうんだよ、母親故の力だねえ」
「どうして?」
幸代はしわの寄った顔にさらにしわを寄せながら、アルバムを見た。
「夢翔のお母さんはね、身体が弱かったの。私の旦那、あなたのおじいちゃんも身体が弱かったわ。あの人も夢翔が生まれる前に、ぽっくり先に逝ってしまったしねえ。だからかわからないけど、愛情をすごく感じれる子だったわ。それで、夢翔のお父さんと出会って、愛し合ったの。たぶん、自分があんまり長くない事を悟ってたんじゃないかしら。子供は産むって私も何回聞いたことかしら」
夢翔は、ただただ真剣に幸代の話を聞いていた。
「自分の娘なのもあるかもしれないけど、お父さんの事はもちろん、夢翔のことも沢山愛していたわ。だから、大丈夫。夢翔は幸せ者だと思うわ」
温かい空気がリビングに流れる。夢翔は、そのエコー写真をもう一度眺める。人の形にもなっていないような状態の写真も、完全に赤ちゃんの形を成している写真もある。一体どれほど母親は、愛情を自分に注いでくれたのだろうか。幸代の作ってくれたハンバーグを食べながら、幸代のする母親の話に耳を傾けた。

「最近、いないらしいよ」
相も変わらずタケちゃんは手をおばけのポーズにして、夢翔に話しかけた。スイミングキャップに着いているワッペンが、一段階上のクラスに移った事を表していた。
「そういや、試験の時、夢翔いなかったよな」
「あ、いや、ちょっとね」
「ふーん……。まあいいけどさ」
塩素まみれの身体を拭く。いつもより髪の毛がごわついているのを感じた夢翔は、自分の毛量が多くなっていることに気づく。
「じゃあな! 母さんが待ってるから行くわ」
母さんという単語に、夢翔の振っていた手の動きが止まる。賢嗣からは、夢翔を産んでからしばらくして亡くなってしまった、という話は聞いている。だけど、お母さんの好きなものも、嫌いな食べ物も、怒った顔も知らない。笑った顔でさえ、写真の中のいつも変わらない笑顔だけしか知らない。ぽっかりと胸の真ん中が空いたような心地になる。もともと居なかっただけじゃないか、僕にはお父さんがいるんだと思いなおしても、夢翔の穴は埋まりそうになかった。
 今日のスイミングも、プールの中に入っていると、母親のお腹にいた頃を思い出すような気がして、気分が重かった。
 いつものように、見学ブースに行く。誰もいないベンチに座って、本を出そうとするが鞄へ手が動かない。ファンタジーだって、サイエンスフィクションだって、推理小説だって、母親の存在は大きく描かれていた。結局本の中の話なんて、くだらないのかもしれないとさえ、思えてきた。この何か寂しい哀しい気持ちも、新しくできたものじゃなくて、いままで気づかなかっただけかもしれない。
「夢翔くん、だよね」
後ろから女の人の声がする。夢翔はすぐさま、あのおばけだということに気づいた。
「髪、伸びてるから最初分からなかった」
少し微笑みながら城戸はそう言った。以前、あんな顔をしていたとは思えない。
「あ、お姉さん……」
「夢翔君に会いたくて、どの時間帯の子かスクールの人に聞いちゃった。おかげで本格的に不審者だと思われそうだったよ」
「そう、なんだ」
「この前、あんなこと話しちゃったでしょ? だから今度は夢翔くんの話も聞きたいなって思って」
ふわり、と塩素とは違う、花のような香りが流れる。
「僕、お母さんが居ないんです」
一呼吸おいて、静かに、城戸にしか聞こえない声量でそう答えた。城戸の表情は変わらないまま、目だけは真剣だった。
「それで、この前、お姉さんの話を聞いて、何が正解なのかなって思っちゃって、分からなくなっちゃって」
夢翔の眼から涙は出ない。あの時に沢山泣いたから、今は落ち着いている。
「僕、お母さんのこと、何も知らないなって思ったんです」
「似たもの同士って言ってくれたじゃない? この前」
「えっ?」
突然の言葉に、夢翔は顔を上げる。
「夢翔君はお母さんが居なくて、私はお母さんになれなかった。私は生まれてくるはずだった子供の事を考えて、夢翔君は生きてるはずだったお母さんの事を考えて」
城戸の眼は少し充血していた。
「そう、かもしれません」
「もちろん、同じとは言わないよ。立場が違うしね。でも君は偉いよ、お父さんと一緒に暮らして、ちゃんとスイミングスクールも通って……」
「でもこの前しばらく休んじゃいました」
「知ってる。毎週その時間だけここに来てたから。謝りたかったの」
「でも……」
「私も休んでるの。人生」
「じん、せい?」
「赤ちゃんがちゃんと生まれなかったって話したじゃない? それの所為で当時の旦那にも逃げられて。産むためにお仕事も辞めちゃってたから、社会復帰もなかなかできなくてさ。今は実家にお世話になってるよ」
「そう、なんですか」
「でも、夢翔君に話したあと、自分は何やってるんだろう、ってなっちゃって。お母さんがいない君ですらこうやって頑張ってるのに、バカだなあって」
城戸は自嘲気味に少し笑いながら、視線を落とした。
「夢翔くんは今、幸せ?」
わからない。夢翔の頭の中はその言葉で埋め尽くされた。
「わからない、よね。でも私には、お父さんと一緒に帰ってる姿、幸せそうに見えたよ」
夢翔は、母親が居ないことがずっとコンプレックスだった。授業参観でも、運動会でも、避難訓練の受け渡しでも、みんな迎えに来るのはお母さんだった。そういうときは決まって、先生と一緒に最後まで残って自分で家に帰るか、本当にギリギリになって賢嗣が迎えに来るか、だった。
「君の話を聞いて、本当に強いと思ったよ。私なんて両親どっちも居るのに、こんな人間に育っちゃった」
でも、今こうして自分の事を幸せそうだと言ってくれる人がいた。夢翔は自分の胸に手を当てて、目を閉じる。
「僕もう少し、お母さんの事、お父さんに聞いてみます」
進まなければならない。自分に空いた穴を見つめなければならない。きっと、色んな考えがあってお父さんもお母さんも、僕の事を産むと決めたのだろう。だから、残された僕なりの行動をしなきゃならない。一歩でもお母さんが願った未来を進むんだ。
「かっこいい、私も夢翔くんを見習って頑張るよ」
小さな笑い声が、見学ブース内にこだまする。
「おーい、夢翔、おまたせ」
賢嗣の声がする。夢翔は力強くベンチから立ち上がり、父親に駆け寄った。
「大丈夫か?」
いろいろ我慢している表情の夢翔を見て、賢嗣はそう問いかける。
「大丈夫。これから、お母さんのこともっと教えてほしい」
賢嗣は一瞬、不思議そうな顔をしたが、後ろで静かに微笑む城戸を一瞥したのち、大きく頷いた。
「良かったら、お話聞かせてもらえませんか?」
自分への言葉に目を見開く城戸。子持ちとはいえ、男性からの誘いは久しぶりだった。
「いいんですか、私、お邪魔になってしまうような」
「大丈夫です、これから夢翔のお母さんが好きだったものを食べに行くので、ご一緒にどうかと思いまして」
「お母さんの好物、何だったの?」
夢翔の眼を輝かせながらするその質問に、ふふっ、と賢嗣は笑った後、少し眉をひそめてこういった。
「夢翔と同じさ」

「お母さんはな、コーラが好きだったんだ」
「僕、炭酸苦手だから飲めないよ」
「いいから、飲んでみなよ」
城戸もコーラを夢翔にすすめた。
「あれ、ぱちぱちがおいしい……」
かつて飲んだ時は痛くて仕方が無かったはずなのに、夢翔はこの炭酸が喉に酷く心地よかった。

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