私の中卒理由と不登校

こんにちは、あしゅと申します。
今回は中学時代の私と不登校になり中卒した経緯について。
かなり過激でセンシティブな内容となりますので、
虐待・暴言・いじめ・性的発言
そういった表現が含まれます。
ご自身の体調と相談してご覧ください。
















弟の誕生と私の高校費用

私は中学時代に歳の離れた弟が生まれた。
一か月も早く生まれてしまい未熟児として生まれてきて、病気もたくさんしたが、赤ちゃんは可愛く元気にすくすくと育ち、歳も離れていたことがありとてもかわいい存在だった。

ミルクもあげたし、おむつも替えたし、泣いているときはあやしたし、共働きの親に変わって半分ほど面倒を見ていた。

けれど、それはつかの間の幸せ…いや、ずっとうちは不幸せだったのだ。
見えないふり、知らないふり、無知なままでいた私にはわからない、父と母の間に出来ていた大きな溝、貯蓄の無い我が家。

弟は未熟児だったこともあってか病弱で、その病院費もよくかかり一度は入院したことだってある、私が中学二年のころにはもう、私が高校に行けるだけの余裕はなくなっていたのだ。

私はそんなことも知らず、頭はよくないがそこそこの高校に行ったらバイトをして、そのお金をためて声優の専門学校に行くんだと意気込んでいた。
アニメも漫画も好きだった私は、幼い頃からからかわれがちだったこの声を使って、声優として仕事がしたかった。
そんな夢見る中学生だった。

しかし、私にそんな道はなかったのだ、高校へ行くのは「普通」の事だと思って居た私は、そんな事考えもしなかった。

浪費家な父、逆らい切れない母、父に洗脳されてしまった私、突然の弟の出産に赤ちゃん返りをしてしまった妹、そんな家に生まれてきた弟。

私は結果的に、高校に行くことは出来なかった。





叩きつぶされた夢

ある日、中学二年生にもなると自然と進路の話が出てくる。
私は自分の学力に見合った高校へ行き、バイトがしたい事、その後は声優になる為の専門学校に通いたいのだと家族の前で語った。

何の気なしに、軽い気持ちで、こうありたいよ~と。
にこにこと晩御飯を食べながら語っていた時だった。

「お前みたいな才能もない、頭も良くない、ただの一般人以下の女が、
 芸能人になんて、ましてや声優になんてなれるわけがないだろうが!
 もう少し鏡を見てから物を言え!夢ばっかり見てんな!!!!!」


突然、隣で一緒にご飯を食べていた父が声を荒げた。

何故、父がそんなに怒るのか、私には理解できなかった。
何故、急にお前は無能なんだと言われるのか理解できなかった。

確かに私は勉強が得意ではなく、頭はそんなに良くない、特に理科や数学は大の苦手だったし、成績は中の下。

でも、所属していた演劇部では私の声の通りや演技力が評価されていて、先生だって応援してくれていた。
父や母も当然、応援してくれるものだと思って居た。

だって今まで、お父さんは特に散々私を可愛いと言って育ててくれたから。


「いいか、お前なんかが芸能界に入っても金を搾り取られて終わりだ。
 寝枕をしたって仕事がもらえるかも怪しい、お前はそんなことに処女を
 使うのか?馬鹿なことを言うな、大人の世界をなんだと思ってるんだ。」


処女。

中学二年生にもなると、その言葉の意味くらいは知っていた。
開いた口がふさがらず、ぱくぱくと言葉を吐き出そうと開閉するも、うまく声にならずくぐもった音がかすかな息に混ざって出るだけ。

そんな私に畳みかけるように、父は声を荒げて言った。


「お前の処女に価値はない、お前に才能はない。
 そんなことのために高校へ行くのなら高校費用だって無駄だ。
 頭の悪いお前が高校に行って何になる?
 なら高校へ行かず働いたほうがましだ!!!!!」


私の処女には価値が無い。

私は高校へ行かないほうがいい。

父の洗脳を幼い頃から受け続けてきた私は、ボロボロと涙を零しながら、心のどこかで「ひどい!」と叫びながらも、何も言えなかった。
きっと言い返しても今度はこぶしが飛んでくるのだろうと諦めて、唇をかみしめながらうつむくことしか出来なかった。

嗚咽を漏らしながら泣く私を見て父は
「泣くなうっとうしい!!さっさと飯を食え!!!」
とさらに怒鳴りつける。

母はおろおろと見ているしか出来ない、妹は口を挟むことすら許されない。

ただ弟は、ベビーチェアに座ったまま、訳も分からずにこにこしていた。

私の夢と、勉強を頑張ろうとした思いと、わずかな希望は、全て粉々に砕け散っていった。

私は、夢を見てはいけないんだ。

そう言われているようだった。




学校へ行く理由・意味

それでも朝はやってくる、私は一晩中泣きはらした顔で学校へ行ったが、当時ホルモンバランスの影響もあってかぽっちゃりとしていた私は、誰にも泣いた後だと気づかれることなく一日を終えた。

私はその日一日、ずっと学校へ行く意味を考えた。
高校に行く必要が無いのなら、行ったとしても夢を追いかけられないなら、何のために私は勉強しているのだろう?

もともと勉強そんなに好きじゃないし、男子はちょっかいかけてきてウザいし、どのグループにもなじみ切れず「それとなく」過ごしていた私にとっては、学校に通う価値が、勉強をする意味が見いだせなかった。

でも幸いなことに、仲良くしてくれる人はたくさんいたし、当時親友と呼べるほど仲のいい子もいて、学校はそれなりに楽しかった。

行く意味はないが、行けば楽しい環境だった。
部活も楽しいし、その間は私はほんの少しだけ夢を見れる。
その為だけに、逃げるように学校へ通った。

行かなかったら怒られるし、行かないとみんなに会えないし、今の担任の先生は好きだし、そんな理由で通っていた中学二年が終わった。

中学三年生になった私には、色んな事が起こった。




いじめと孤立

私は何故か、からかわれやすいタイプだった。
小学生のころから、男子には見た目や声が変だと良くからかわれ、そんな私が男子に色目を使っているなどとして女子からもあまり人気ではなかった。
しかし、私は友人に恵まれていた、親友と呼べる子がいつだって私をかばってくれていた。

けれど、些細な事で親友と喧嘩した際に、私を快く思わない女子が「あいつが〇〇(親友)を泣かせた最低な奴」などと言いふらし、私は一度孤立しかけたことがあった。

その際は小学生だったこともあり、大きな問題にならず次第に私と親友は仲直りし、事態は収まっていた。
その親友は受験したため中学は離れ離れになってしまったが、最後までとても仲が良かったと今でも覚えている。

しかし中学3年生の夏休み前、私はまた、根も葉もないうわさを流され、周囲から孤立させられた。

ほとんどのクラスメイト…いや、学年の生徒が、私を無視していたと思う。
理由はわからない、ある日突然私は無視され始めたのだ。

普段から仲のいい友人はそこまででは無かったが、中学三年ともなるとみんな受験勉強にピリピリしてくる時期だった。
私はその場が、教室が、学校が、居心地悪かった。

犯人は小学生の時に噂を広めたやつだと分かっていたが、証拠もなく私は相手にするのもばかばかしいと思い、無視を決め込むことにした。

しかし、毎日送られてくる匿名メールからの「死ね」のメール。
隠される上履き、捨てられる靴、ぐちゃぐちゃになった教科書。
私の心はただでさえ砕け散っていたのに、どんどん削れていった。

そのまま、夏休みがやってきた。




青春とは程遠い最後の夏休みと…

「夏休みどうせ暇やろ、店の手伝いせえ。」

そんな一言から、私は中学三年の夏休みのほとんどを、父が営んでいる散髪店で手伝いをすることになった。
みんなは中学受験のために夏期講習や塾で忙しい、たまに遊びに行こうと誘いが入った日は快く送り出してくれたが、それ以外はずっと働いていた。

「ちゃんと働いた分は給料としてお小遣いやるからな」

そう言って、夏休みが終わり手渡されたのは三万円。
当時の私にとっては大金だったが、今思えば夏休み期間中ほとんど朝から晩まで働いていたことを考えると、最低賃金の時給よりも低い。

「なんも技術の無いお前にレジ打ちと掃除と受付やらせてやっただけで、
 こんな大金が手に入る、技術はお父さんがみっちり教えてやる。
 どうだ、高校に行くよりここで働いたほうが賢明だろう?」

父はにこにこと笑いながら、仕事からの帰り道は毎日のように私にそういっていた、私は笑いながら受け流していたが、次第に洗脳されていった。

確かに、高校なんて行く必要ないんじゃん。

そう、考えてしまった。
そう思ったが最後、一切勉強が身に入らなくなり、夏休みの開けた二学期からはテストは名前を書くのみでほとんど白紙で提出。
中学1年の時に私の担任をしていた人が3年でも担任だったため、ひどく驚かれた。

「どうしたの!?ぜんぜん解けてない、というより解く気が無いように感じるけれど…!!何があったの!?」

そう心配そうに私に詰め寄る担任に、私は笑顔で言ったのだ。

「先生、私高校にはいかないんです、働くんです。」

とても驚いた顔をしていたのを今でも覚えている。
ただでさえ真ん丸な優しい瞳が見開かれ、何をいっているんだと。

それもそのはず、私は夏休みに入るまで一応高校に行こうとはしていた。
だってみんなが行くから、私も行くものだと思い、馬鹿なりに勉強に励んでいた。

それが夏休みが明けて突然、高校に行かないと言い出したのだから、何かあったんでしょう?と聞かれたが、この時の私はもうすっかり洗脳されていた。

「だって勉強嫌いですし、働くなら早いほうがいいですし、ならもう勉強する必要ないかなって、もう決めたんです。」

にこにこと私は答えた。
先生は何とか私を説得しようと、何度も何度も私を呼び出しては考え直さないかと言ってくれた。

でも私の中にはもう、働くしかないんだと決めつけられていた。
だって父がそう望んでいて、その方が家のためになるんだから。
母は勉強くらいはしておきなさいと今更個人塾に通わせてくれたが、何も身に入らず、ただお金の無駄となるだけだった。

私は最後の学園祭の演劇だけが楽しみだった、それだけのために学校へ行き、練習し、台本を読み込んだ。

結果、劇は大成功、私の役が良かったといろんな人からアンケートでほめてもらえた。

私は嬉しかった、満足だった、これでもう、終わりなんだ。

私は二学期中も学校が終わったら店の手伝いをさせられていた。
土日だって働いて、でもそのおかげで微々たるお小遣いをもらえた。
それとは裏腹に、もっと友達と話したい、帰り道で色んなことを話し合いたい、そう思っても、あまり遅くなると今度は母の負担が大きくなる為、私は早めに店に行かなくてはならなかった。

「学際終わったんだろう?もう部活に出る必要もないし早く来れるな」

地獄だった。
授業が終わればすぐ家に帰り着替え、店に行き夜遅くまで働き、へとへとになりながら家に帰り寝て、また学校へ行く。
土日に休むことは許されず、唯一定休日の月曜日だけは自由な時間だった。

けれど、夏休みを挟んで一旦落ち着いていたいじめが、また加速することになった。




あらぬ噂といじめの再発

「お前さ、援交してるんだろ?」

にやにやとしながら話しかけてきた、クラスのヤンキーたち。
全く身に覚えが無い言葉をかけられてぽかんとしていると、ここぞとばかりに言葉を浴びせてくる。

「この間おっさんと車乗って休みの日出かけてただろ。
 儲かってんの?だから勉強してないんじゃないの?」

きっと、父の車で仕事に行っていることを言っているのだとすぐに分かった、私はその場で「家の手伝い、それはお父さん」と反論したが、男子は聞く耳を満たず面白がってはやし立てた。

これ以上相手をしても意味が無いと思い、私は無視を決め込むことにした。
が、その噂は学校中に広まり、先生にも呼ぼ出されてしまうほどだった。

「ねえ、あなたその歳で援助交際してるって…、嘘よね?
 あなたはそんな子じゃないもんね?」

そう言いながら疑いの目を向けてくる担任に心底うんざりしていた、私は家の手伝いで父の助手席に座っていただけだと話すと、担任もどこかほっとした顔をしていたが、何やらまだ聞きたいことがあるような眼をしていた。

「散髪屋になるんで、高校行きません、もう決めたんです。」
「どうして?1年生の頃は声優になりたいって、演劇部もあんなに楽しそうにしていたのに…」
「いいんです、決めたんです、私が決めたんです。」

先生の言葉を遮り、自分にも言い聞かせるかのように、私は言った。
本当は苦しかった、悲しかった、気づいてほしかった。
でも先生はそのまま私を帰してくれた。

しかしその日、私が生徒指導室に呼び出されたことにより「あいつが援助交際している噂は本当だったんだ」と、さらに噂は回っていった。
受験でストレスの溜まっている人たちからはいい発散の的だったんだろう。

陰でこそこそとはやし立てるクラスメイト、表立って馬鹿にしてくる男子、陰湿ないじめを繰り返してくる女子。

もう、耐えられない。
こんな学校行く意味ある?
義務教育なんだし行かなくても卒業出来るでしょ。
手元にあったガラケーで調べた知識をもとに、私はどんどん学校へ行く気が無くなっていき、何もする気が起きなかった。

私は、ついに不登校になった。




最後の抵抗

私は親の前では学校に行くふりをした。
だって学校に行かなければ店を手伝えと言われるに決まっていたからだ。
私はカバンにレジャーシートと漫画を詰め込み、近くの裏山で時間を過ごし、家に誰もいなくなったのを見計らって家に帰った。

家出は特にする事も無く、漫画を読んだりゲームをしたり、ストレスから解放され充実した時間を過ごしていた。

学校には「体調が悪いのでいけません」と電話を入れやり過ごし、中学三年生の最後の半分はほとんど不登校だった。

担任の先生が親に連絡すると言い出した時は「余計なことすんなよ」と思いながらも、重たい足取りで学校へ行った。
私はいじめやその原因になった噂の元など関係なく腫物扱いを受けるようになり、何人かの友人にはなぜ来ないのかと心配され怒られた。

「私、高校行かないんだ、家の仕事するの、だからもういいんだ。」

とある放課後、部活メンバーや仲のいい数人で少しだけたむろっていた時、私は笑ってみんなに言った。
みんなは「そっか」「頑張って」など当たり障りのない言葉をかけ、どうしていいかわからない様子だった。
そんな時、ひとりの友人が言った。


「じゃあもっと学校きてよ!もっとみんなで遊ぼうよ!
 思い出も作らないとあしゅちゃん、もう学生最後になるんだよ!?
 今日は仕事行かずにみんなで沢山話そうよ!前みたいに!」


少し怒ったような、強めの声色で、強く強く訴えかけてくれた。
うれしかった、苦しかった、私だって普通にみんなと遊びたい、他愛もないことをしゃべって過ごしたい、好きな漫画について語りたい。

でも、父のいうことは絶対だ、遅れたら私も母も怒られるのだ。

私は後ろ髪引かれる思いで多目的室を後にしようとした。


「なんで!友達じゃん!もっと遊ぼうよ!学校来てよ!
 仕事なんてしなくていいよ!ばか!あしゅちゃんのばか!
 友達より仕事なんだ!ばか!ばか!ばか!」


そんな言葉に私は涙をぐっとこらえて「ごめんね」とだけ言って学校を後にし、店へと向かった。

私は、何のために生まれてきたんだろう。

ぼんやりとそう考えながら、いつも通り店に行った。
でも、そうするしかなかった、私にはそれしかなかった。

相変わらず不登校気味だったが、私は彼女の言葉を受け、たまに学校に顔を出すようになった。
男子は相変わらずウザいけど、そこまでいじめも無くなっていた。

今になっても、ぼんやりとしか覚えていない彼女の言葉が突き刺さる。

けれど、今の私があの時代に戻ったとしても、もうどうしよう出来なかっただろう、私がいまさら高校に行くための学力もお金もないのだから。

こうして私は、両親に黙って最後の抵抗をしていた。

それが私の精一杯の反抗期だったから。



卒業式


不登校の私なんて卒業式になんか出なくてもと思ったが、行かなかったら親に今まで不登校だったことがばれるかもしれない。そんな思いから卒業式には参加した。
友達と呼べるのかは分からないが、声をかけてくれる人はそれなりにおり、最後の方ではみんなもそれぞれ進学したりするため、もう私をキモがったり、うざがったり、馬鹿にする人はいなくなっていた。

私を冷たい目で見て笑っていた女子は「離れたくない」なんて言って泣いていたし、私にヤジを飛ばしていた男子は何も気にせず「写真撮ろうぜ」なんて言ってくる。あれ、私、なんでいじめられていたんだろう?そう思ってしまうくらい私はみんなからそこそこ受け入れられていた。

きっと今も、私の手元には無いが、彼らの思い出の写真の中に、ぎこちなく笑う私の写真が何枚か残っているだろう。

合唱の時は周りが泣くからつられて泣いた。
集合写真の時は周りが笑うからつられて笑った。

あれだけ心配していた担任の先生も、最後は何もなかったように笑っていた。

でも、みんなが当たり前のように「二次会行くぞ!」などという話をしている中に、私の場所はない。

そもそも呼ばれていないし、会費なんて払えっこない。
何だったら、家にいる父親に早く帰ってこいなんていわれていた。

卒業式が終わった後、挨拶もそこそこに私はそそくさと家に帰った。
後から友人が「どこ行ったの?もう帰ったの?」なんてメールが届いていたが、そんなメールを寄越してきた人たちはその後二度と連絡が帰ってくることはなかった。

そして、そんな私に父親が、とどめを刺した。


「担任だって結局は自分のクラスから中卒が出るってなって、教育委員会からの評判に響くからお前を気にかけていただけ。
 同級生もどうせ今頃お前のことなんて気にしてないし、付き合うだけ時間の無駄、高校に入って新しい友達が出来たらお前なんてすぐ忘れられる。
 お前なんて最初からいてもいなくても良かった。」


可哀想に。
そう笑う父の声が、今もたまに夢に出る。

その後、どう過ごしたのかはよく覚えていない。
でも、卒業と同時に市販の毛染剤で髪を一番明るく染め、ピアスを開け、どんどん「私」が崩れていった気がする。


私はこうして中卒になり、父の仕事を手伝い、毎日毎日働き、父からの熱心な指導にも耐え、いつしかネットに逃げていた。

ガラケーがあって、ネットがあって、本当に良かったと思う。
でなければ私は今、こうして文章を書いていないだろうから。



最後に


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
大変重苦しい内容だったかと思います。

家庭環境での辛さなんてクラスメイトは知らなかったと思います。
彼らはきっと、そんなこと忘れてのうのうと生きているし、私が今もこうして文章を残すほど思い詰めていたなんて知らないと思います

何度も死のうと考えたことはありますが、私にそんな勇気なんてなくて、何よりも死にきれなかった場合、父にどのような報復をされるのだろうという思いが強く、怖く、恐怖で何もできませんでした。

その後、何年もたって、やっと全ての自由を手にした瞬間、私はとあるきっかけで本気で死にかけそうになるほどの鬱になりました。

いまも通院し、自身と向き合い、治療中です。

でも、人は本当に苦しい時は死にたくても死ねなくて。
さあ、これからだ!!という時に、ふと死にたくなるんです。

この話はまた別で書こうと思います。

けど、これをここまで読んでくれた人、私はいま幸せを感じれています。

生きていれば人間、何とかなるみたいです。

でも、最近になってようやく幸せを感じれるようになりました。
瞬間的な、夜風ですぐ覚めるような幸せなんかじゃなく、ああ、なんだ幸せだなと、感じることが出来ています。

少しでもいいから、誰かが今死ぬのやめようかなって思えるきっかけになればいいな。

私みたいな人間でも、生きてるから、みんなもっと生きてていい。
生きてるだけで人間はえらい。

そう思えたらいいな。


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