国連女性人権担当者「セルフID制度は、暴力的男性が悪用する危険がある」

はじめに

 国連の要職に就くリーム・アルサレム Reem Alsalemは、先日スコットランドが進める性別認定改革法案について、イギリス政府に書簡を送り懸念を表明した。いわく、この改正案では「暴力的な男性による制度の『悪用』を許す恐れがある」。BBCThe TimesThe Guardianなど英大手メディアが次々報じるニュースになっており、↓本人のTwitterにも少なくない反響が寄せられている。

アルサレムの役職は、国連の人権理事会から委任された「女性や少女に対する暴力、その原因と結果に関する特別報告官」である。女性に対する暴力を人権理事会に報告することや、「女性や女児に対する暴力の疑いのある事例について、緊急の訴えや通信を国に送信する」ことが仕事である。イギリス政府への書簡送付はこうした任務の一環だろう。

アルサレム書簡の内容

 さてアルサレムはどのような事を懸念したのか。アルサレムのロジックは次のようなものだ。
スコットランドで、自己申告だけで簡単に性別を変更できる改正性別変更法(≒セルフID法)が成立目前だ → 法的性別を女性へと変更した人物は、生物学的女性と同じ男女別サービス・男女別スペースを利用できると解釈されやすい → 性自認が男の悪者がこの制度を悪用し、女性専用サービスやスペースで「多様な女性」に危害を加える危険がある

順を追ってこのロジックを詳しく説明する。スコットランドの現状では、法的性別の変更を望む人は、

・専門医による性別違和の診断書と、性的特性を変えるために受けた治療や手術を記載した診断書の2通 two medical reportsを用意すること
・少なくとも2年間、取得した性別でフルタイムで生活してきたことを証明すること
・性別認定委員会が必要な証拠を検討し、納得すること

https://www.bbc.com/news/uk-scotland-scotland-politics-60221034 および https://spcommreports.ohchr.org/TMResultsBase/DownLoadPublicCommunicationFile?gId=27681
 1頁

こういった条件を満たす必要があったという。アルサレムによると、このプロセスで性別変更を行った人は性別承認証明書を取得し、この証明書はスコットランド全域で、女性専用サービスの利用権を有するという法的推定 legal presumptionを生み出す。まあつまり他の女性が利用できるサービスなら、なんであれ利用できないと原則的には差別になるはずだろう。

新しい性別認定改革法案では、診断書の提出が不要となる No diagnosis or medical reports。つまり手術や治療要件も不要になる。また望む性別としてちゃんと暮らしてますと証明が必要な生活期間も、2年→3ヶ月へと大幅に短縮される。性別認定委員会が必要な証拠を検討し、納得するという要件の削除も提案されている。
ただし、生涯その性別を維持すると誓う必要があり、虚偽申告は刑事犯罪となる。

これは純粋な「セルフID」にきわめて近づく。
セルフIDとは「自己認識だけで法的性別変更を可能とする考えや制度である」(Wikipedia)。
 セルフIDには、法的な性別変更を望むトランスジェンダーの人々の負担を軽減できるメリットがある。日本で有力な反差別アクティビストによれば、現在「『セルフID法が必要では?』という議論になっている」。
また次のような悪用をされる可能性は無いという。

このためアルサレム書簡は、人によっては衝撃的である。見る人によっては「差別的」内容だからだ。見る人によっては、国連の女性人権問題専門家が、極右や宗教右派やトランスヘイターのような、セルフIDへの不安をあおる「差別扇動」をしているのだ。しかし国連の専門家の提言となれば、これからどう考えてよいのか混乱し、認知的不協和が起きかねない。

 アルサレム書簡の内容説明に入ろう。彼女の主張で荒れそうなポイントは2つある。
1.スコットランドの性別認定改革法案(≒セルフID制度)を、犯罪目的の男性が悪用し、女性用スペースで性犯罪などを犯す危険があると主張
2.「男性として生まれた人」の利用を不許可とする女性用サービス・女性用スペースの提供を正当化できる場合があると主張

まず「1.」について。アルサレム書簡は性別認定改革法案について、「あらゆる多様な女性(女性として生まれた女性、トランス女性、ジェンダー不適合な女性を含む)」を危険に晒すと指摘する(書簡1頁)。

[…]進行中のスコットランド政府による現行法改正への尽力は、あらゆる多様性をもつ女性や少女、とりわけ男性からの暴力の危険にさらされている人々や、男性からの暴力を経験した人々の特定ニーズへの考慮が不十分だ。なぜなら、その手続きは、合理的に保証できる限り、性犯罪者やその他暴力の加害者によって、悪用 abusedされないと保証する安全対策手段は規定されていないためである。これには、男女別のスペース single sex spaces[※直訳なら「単一性別空間」]とジェンダーに基づく空間 gender-based spaces両方へのアクセスが含まれる。安全対策とリスク管理の手続きを主張することは、トランスジェンダーが防犯上の脅威を表している representという信念から生じたものではないことに留意することが重要です。そうではなく、次の経験的エビデンス empirical evidenceに基づくものである。性犯罪者の大多数は男性であり、執拗な性犯罪者は虐待したい人に近づくために多大な努力をすることを示す証拠がある。彼らがこれを行う方法の一つは、手続きを悪用して、男女別のスペースにアクセスしたり、安全対策上の理由から通常は女性限定である役割を担ったりすることです。

https://spcommreports.ohchr.org/TMResultsBase/DownLoadPublicCommunicationFile?gId=27681
 3-4頁

つまり、簡単に「男性」から「女性」に性別を変更できるようになると、悪意ある男性自認男性が、女性に対し性暴力や虐待をしやすくなるとアルサレムは懸念する。
「2.」について。アルサレムは、場合によってはトランスセクシャル女性や、それ以外のトランスジェンダー女性による女性用サービス利用を認めないことが合法である例外的場面も存在する、とイギリスの法律やガイダンスを肯定的に引用し、確認する。

2010 年平等法の注釈 740 節では、男女別サービス single sex serviceの運用例として、同法において性別 sexという用語は性自認 gender identityと同義ではないことを明記している。「性的暴行の被害者である女性のためのグループカウンセリングが行われる。主催者は男性から女性へとトランスセクシュアルした人 male-to female-transexual personもそこにいたら、グループセッションに参加するクライエントは参加しにくいと判断し、トランスセクシュアルの人の参加を許可しない。これは合法的 lawfulなものでしょう」。
[…]
2022年4月、平等人権委員会(EHRC)は、2010年平等法の性別 sexおよびジェンダー gender変更の規定に関する法定外ガイダンスを更新し、平等法が分離または男女別サービスsingle sex servicesの提供を認める状況について詳しく説明することを発表した。ガイダンスによれば、プライバシー、尊厳 dignity、そして安全に対する女性のニーズは、正当な目的を達成する適切な手段として、男性として生まれた人 anyone born maleを除外 excludingした男女別サービス single sex serviceの提供を正当化しうる。

https://spcommreports.ohchr.org/TMResultsBase/DownLoadPublicCommunicationFile?gId=27681
 4-5頁

「トランスセクシャル」は、身体違和がきついことから性別適合手術したひと/手術を望む人を指す。なお日本の現行法(GID特例法)だと性別適合手術を受ける事が、法的な性別を変更するための条件の一つだ。(※なお「トランスセクシャル」の人は、特例法の手術要件削除を望む人とは意見が異なる人も多い)
性自認に基づく法的性別の変更に批判的な人たちの中でさえ、手術済のトランスセクシャル女性を女性スペースから排除することは差別だ、と考える人は多い。したがって限定された用途での「不許可」とはいえ、アルサレム書簡の主張はそれよりも踏み込んでいる。ちなみに性自認による差別禁止を謳った「ジョグジャカルタ原則」については、法的拘束力がなく、またアルサレムの主張に沿うよう解釈する余地はあるとする(書簡3頁)。

 また「正当な目的を達成するための均整の取れた手段 proportionate  means」である場合に限り、「ドメスティック・バイオレンス・シェルター、 レイプ・カウンセリング・サービス、刑務所が含まれるが、これらに限定されない」状況において、生物学的性別 sexに基づく女性スペースのため、トランス女性に使用許可を与えない区別[または差別]  discriminationが、イギリスの2010年平等法では合法であると確認する(書簡4頁)。

またシス女性の一部が、スコットランド政府から不公平な取り扱いを受けているとも示唆する。

私は、政府がトランス女性を代表する団体を含め、その声に耳を傾けたことを称賛する一方で、この提案のための協議が、他のグループの女性、特に暴力の被害者である女性を十分に包摂 inclusiveしていないように見えることを懸念している。

 https://spcommreports.ohchr.org/TMResultsBase/DownLoadPublicCommunicationFile?gId=27681
9頁

 アルサレムは、だからといって性自認をベースに性別変更する制度を全否定してはいない。またアルサレムは、これまで性別違和の医学的診断書が必要だったことは、性別違和を精神疾患とみなさないイギリス政府方針にも反し、当事者に不当な負担を課すと考え、スコットランド政府の改革をこの点では歓迎している。ではどんな基準や制度を彼女が理想と考えるのか、それがよく分からない。(※審査基準の明確化は求めている)

 書簡で私が重要だと考えるポイントは、次のことだ。アルサレムは、法的に変更された後の性別と、男女別サービス・スペースの使用権とでは、「性別」は全く同一の概念や定義のものではないと明らかに考えている。つまりいわゆる出生時の生物学的性別と、法的に変更した性別とでは、男女別サービス・スペースを利用する権利が同一ではなくズレがあり、それは合法であると正当化される場合(例外)があるとする。

このためトランスジェンダーの人々への「不許可」が正当化される例外的シチュエーションが存在する事となる。しかし現状のイギリスおよびスコットランドでは、権利の「ズレ」「例外」の内容について必ずしも合意がなく不安定だ。このような状況では<出生時の生物学的性別と、法的性別とは権利上全く同一である>との有力な解釈を悪用し、法的に性別変更をし、様々な男女別サービス・スペースを悪用する男性自認男性が出てくる。したがって容易な法的性別変更を許すセルフIDに近い制度は、多様な女性にとって危険だ、とアルサレムは考えているようだ。

※この記事はDeepLを大いに活用して書きました。

【12/15 追記】
The Times調査によるとスコットランド世論の約2/3は、セルフID改正案に反対のようです。
Two thirds of voters oppose SNP’s gender reform plans

 


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