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瞑想トレーニングなしではなく/だけでもなく

↓こんな5年前の映像がFacebookの”思い出”でリマインドされてきた。
ステファン君、OSHOダイナミック瞑想を体験するの巻。

マッドなクレイジーな(キチガイじみた、おバカな)映像でもあるけれど、どこか健やかに世間で関わっていて、虚飾なく笑い合う人たちのコミュニティの土台があって撮られている感じがした。

こういう土台なしに、たとえばステファン君が一人でYouTube見てダイナミック瞑想してみたって、ちょっと違うところに行くだけかもしれない。

必ずしもダイナミック瞑想でなくてもいいし、カタルシスみたいなのでなくてもいい。

割り切ったものだと分かって”マインドフルネス”瞑想トレーニングを使うのも一種の”使いで”はある。マインドフルネスさんのおかげで人目をはばからず瞑想瞑想言えるくらいふつーに流行ってよかった面もある。

ときどき(控えめに言ってときどき)美しすぎる理想の瞑想状態(?)を求めている人たちに出会うことが続いた。私はもやもやして、ちょっと乱暴に、ダイナミックにブチ込んじゃえ!なんて言ったりしている。

一瞬一瞬、感情はあってもいいし、なくてもいい。
あったとしても、それは”私”(と同一)ではない。

好みの感情でなくても、それが観られるなら、フタをしたりいぢったりしないでいい。

ってか、そんな不健康な。

でも、それを他者にぶつけるとか、破壊的に使うかとは別の話だ。

ダイナミックのような瞑想トレーニングは、(狭義の)マインドフルネス瞑想さんよりも、もう一層観ることを強力にたすける。

ただ、そして、エモーションというかデザイアというか、そういうものをどう使うか、それらを携えながら世間で身も蓋もなく他者とどう関わっていくか、ということには、別のトレーニング、あるいはコミュニティが力を持つんじゃないかな。

この数年、オンライン瞑想会もさんざんしてみて、そんなことも感じ直している。

もう短くない年月、瞑想トレーニングのファシリテーターをしてきた。ウンチクのようなことは言わないようにして、ただもくもくとやってきた。けれど、それでは漏れてしまうこともあるような気がするこの頃。もやもやとしゃべってみる。


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