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SDGって。。。

僕は実家がお寺ということもあり、これまでお寺さんでお勤めをさせて頂く機会が多くあった。小学生の頃には、京都のお寺さんで開催されている夏休み体験修行のような催しに泊りがけで参加していた(させられていた)。
お経を読んだり、説法を聞いたり、作務を手伝ったりしたのも何となく記憶に残っているが、食事の作法が一番記憶に鮮明である。
当然食事は精進料理で、朝ごはんは白いご飯、お味噌汁、漬物、ちょっとしたおかず程度だったと思う。食事の終わり頃になると急須に入ったお茶がテーブルの端から回されて、そのお茶をご飯のお茶碗に注ぐのが作法であった。そしてお茶を頂く前に一枚残しておいた沢庵を箸でつまみ、お茶碗の中を沢庵とお茶で拭うようにふき、その沢庵もお茶も頂くのが作法であった。当然最初は戸惑いがあったが、慣れれば何ということはなく普通の所作として身につくようになった。
その所作にはご飯粒を一粒も残さないように食べるという意味、洗い物をなるべく少なくし手間と洗い物に使う水を節約する意味、など考えられたが今考えてみるとなんともカッコいい粋な所作に思える。今でもたまに年配の方がお茶碗にご飯を食べ終わった後お茶を注いで飲んでいるところを見るが、食事の終わりの作法として何となくカッコいい。祖母が生きていた頃は、頂きものの包装紙をきちんとたたんで保管してメモ帳に使ったり、野菜を包んだりしていたし、麦茶を飲むのもペットボトルではなく毎朝沸かした麦茶を飲んでいた。それは「貧乏くさい」行為ではなく、特別に慎ましい行為でもなく、普通な事だった。
今社会で盛んに取り上げられるサステイナビリティ―への取り組みや環境問題についての話を聞き、世界中を巻き込んでの大がかりな取り組みを目の当たりにすると、「これってそんなに大げさにやらなければいけないことなのか?」とふと思ってしまう。
ものを無駄にしない、無駄な贅沢をしないという意識は、少なくとも僕たちの子どもの頃には当たり前の意識としてみんなが共有していたものである。それはグローバル社会の果てしない「動物会議」的な取り組みと膨大な努力によってのみ何十年後に達成されるような壮大な取り組みではなく、お茶碗に入る様な「心もち」の日々の積み重ねで出来るもののような気がする。正直地球の裏側の山火事にどれだけシンパシーを感じられるかは相当な想像力と崇高な哲学がないと難しいと思うけど、「ご飯粒を残さないで食べなさい!」という意識は毎日の食卓で達成できることな気がする。
というか、なんかそういうのってカッコいいんだよな。

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