「忘れられた巨人」にはなぜ巨人が出てこないのか。題名の意味とラストシーンについて解説|文学 レビュー
カズオイシグロ著「忘れられた巨人」に巨人が出てこないのはなぜか。題名の意味とラストシーンについて解説。ちょっとだけレビュー。
※この記事には思い切りネタバレが含まれますので、未読の方はご注意ください。
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「忘れられた巨人」カズオイシグロ 大いなる疑問が議論を呼び起こすノーベル文学賞受賞作
読書の秋だ!クララとお日さまを読もうかなあ。と思って、「忘れられた巨人」についての解説とレビューを書こうとしていたことを思い出した。
世界中の人が「忘れられた巨人」についていまだに疑問を呈している。
今回はこの2点について書いてみたいと思う。
1、作品タイトル「忘れられた巨人」(原題"The Buried Giant")の意味
2、ラストシーンの解釈
それぞれ私が調べて、解釈したものを解説として紹介したい。
(あくまで一個人の意見だということをご了承いただきたい)
1,作品タイトル「忘れられた巨人」(原題"The Buried Giant")の意味
念の為再度お伝えする。「巨人」は作中に登場しない。(すでに読了済みの方はもちろんご存知だろう。)
では、「巨人」とは何か。これは英語をある程度知っている人ならすぐにわかるし、疑問にすら感じないと思う。
日本語で「巨人」が意味するところは、めちゃくちゃでかい人間か、プロ野球チームだ。
しかし、原題の"Giant"には違う意味がある。
巨大なものや偉大なもの、大きなことを表現するときにも"Giant"が使われる。
小説の題名"The Buried Giant"の"Giant"は、「巨人」ではなく、「巨大な何か」の意味だ。
ちなみに、"Buried"は、"bury"(「掘った墓穴に土をかけて埋める」という意味の動詞。=埋葬する)の過去分詞+名詞(Giant)で「埋葬された○○」という意味になる。
では、埋葬された巨大な何かとは、何か?
The New Yorker(https://www.newyorker.com/magazine/2015/03/23/the-uses-of-oblivion)の記事では、"The Buried Giant"を"historical amnesia(歴史的記憶喪失)"と言い換えている。(あらすじはこちらを参照して貰えばよいかと思うので省く)
簡単に言うと、民族同士の凄惨な戦争の記憶を、権力者がドラゴンの毒霧を利用して全ての人の記憶から消し(隠し)、忘れさせて一時的に平和な世界を作り上げた。
つまり、"The Buried Giant"とは、平和のために土に埋めて隠した残酷な歴史の記憶という意味だ。
イシグロ自身もこのように述べている。
「『忘れられた巨人』においてわたしが書きたかったテーマは、ある共同体、もしくは国家は、いかにして『何を忘れ、何を記憶するのか』を決定するのか、というものでした。わたしは、これまで個人の記憶というテーマを扱ってきましたが、本作では『共同体の記憶』を扱おうと思ったのです。そしてそこから前作と同じように、空間と場所の設定を考えたのです。その結果、4〜5世紀のイギリスを舞台にすることにしたのです」(WIRED https://wired.jp/2015/08/10/kazuo-ishiguro-interview/ より引用)
「あれ、進撃の巨人と似てる?」と思った人は正解。
(進撃の巨人では、パラディ島の王が始祖の巨人の力を使ってユミルの民から過去の記憶を奪い、壁の中で100年の平和を築いた。)
なので、題名を邦題に意訳すると「隠蔽された大いなる歴史」のようなものになるが、これだとノンフィクションの角川新書なので、「忘れられた巨人」でいいと思う。
2、ラストシーンの解釈
ラストシーンでは、アクセルとベアトリスの老夫婦は、入江の船の上で永遠の別れのような挨拶を交わす。ベアトリスは船に残り、アクセルは「後で戻ってきて船に乗せるから、岸で待っていてくれ」と言う船頭の顔を見ようともせず、歩き去ってしまう。
これは一体なんなんだ、と、世界中でいまだに議論がかわされている。
カズオイシグロがちゃんと説明をしないからだ!
この最後の場面の意味を理解するには、そもそも、この物語のありとあらゆる要素が神話や伝説に擬えられているということに気付いていなければならない。
どの要素が何を元にしているのか、について、イギリス人ならきっと説明がなくてもわかるのだろうが、文化の違う日本人にとってはさっぱりわからない。
というわけでいろんなイギリス人の解説を読んでみた結果、おそらくこれが正解だろうと私が思ったのが、船頭=ギリシャ神話に登場する「死者の魂を彼岸へ運ぶ渡し守、カロン」説だ。
船頭は登場時から異質な存在だ。人間らしさは皆無。人間たちの社会で起きていることなどまるで意に介さず、仕事のことばかり気にしている。最初にちょろっと現れて、その後の物語には一切関わらず、また最後に唐突に登場して二人に人生と伴侶への愛についての告解を迫る。
(私はパンズラビリンスに出てきた迷宮の番人パンを勝手にイメージしてた。)
ギリシャ神話のカロンは、死者の魂を船に乗せ、冥界の川(ステュクス川)を渡り死者の国に送り届けるが、生者は乗せない。
(ヨアヒム・パティニール『ステュクス川を渡るカロン』プラド美術館所蔵、1515年 - 1524年)
ベアトリスは今際の際にいた。そのため、船頭が示す方向に、息子がいるであろう島が見えたし、船に乗ることもできた。しかし、アクセルはまだ生きているため島を見ることも、船に乗ることもできない。
とはいえ、少し遅くなるとしてもいずれはアクセルも島に渡り、二人で一緒に暮らせるという希望があるように思える。
ではなぜ、アクセルはまるでその権利を放棄するかのように、船頭に目もくれず去っていったのか。
この点は解釈が人それぞれで、いろいろな意見があった。
例えばこういうものだ
「アクセルはベアトリスの不貞に対する復讐のため、彼女が息子の墓を探しに行くことを禁じた。彼はずっと怒りの中にあり、そのため、船頭の言う「二人が本当に愛し合っている必要がある」という条件を満たせなかった。だから、アクセルは島に行くことができず、それに気付いたため立ち去った」
正直、しっくりこない。記憶がなくなったために、お互いに深く思いやることができたのは確かだ。しかし、アクセルはこう言っている。
「いま思うのは、何か一つのきっかけで変わったのではなくて、二人で分かち合ってきた年月の積み重ねが徐々に変えていった、ということです。(中略)ごく最近のある朝のことです。夜明けが春の最初の兆候を運んできました。部屋には朝日が射していましたが、妻はまだ眠っていて、わたしはその寝顔を見ていました。そのときです。私の中の最後の闇がついに去ったと感じたのは。」
(「忘れられた巨人」カズオイシグロ ハヤカワepi文庫より引用)
アクセルの人柄を考えて、それが偽りの言葉だとは思えないし、嘘だと推測させる要素もない。カズオイシグロなら、読者がその人物の為人によって言動や行動が真実か虚偽かを判断できるようにしているはずだ。高潔で誇り高く誠実な人柄のアクセルが最後の最後に自分の心を偽ろうとするだろうか。それに、小説は作者の人柄も反映される。この作品はイシグロの妻に確認しながら書き上げられているのだ。妻の不貞をいつまでも根に持ち、死の間際にさえ許すことのできない狭量な夫が主人公の小説など、イシグロの妻が許すだろうか。イシグロはそれを妻に読ませたいだろうか。彼らももういい歳だ。互いを許し合うことで夫婦は一緒にいられる。
私は、ただ単純に、アクセルは悲嘆に暮れていたのだろうと思う。この最後のシーンでは、沈みゆく太陽の光の描写が何度か繰り返されている。これは、命の灯ではないか。
船の中で弱々しく横たわり死にゆくベアトリスに別れの言葉を告げるのは、どれほど辛く悲しいことだったろう。
長い間一緒に暮らし、心から信頼し愛してきた相手だ。
その愛する妻が今まさに死の国へ旅立つ。
船頭は妻を自分から連れ去るいわば死神のような存在だ。
悲嘆に打ちのめされ、泣き崩れるのを堪えてその場から離れようとしている最中に死神にかまっている余裕などないだろう。
㫪きの太陽を見つめ、細く消えていく陽光に妻の命を重ねていたのだろうか。
彼は振り返り、船が川へ漕ぎ出すのを見送ることもできない。
心から妻を愛していたからだ。
「忘れられた巨人」カズオイシグロ ちょこっとレビュー
というわけで作品レビューだが、面白いか面白くないかで言ったら面白くはない。
老人夫婦が主人公なので、わかりやすくおもしろいと感じる派手な演出や刺激はほとんどない。
文芸作品としての完成度は言わずもがなで、文句のつけようがない。
ファンタジーは子どものものであるという常識に囚われていないのはいいことなのかもしれないが、私は個人的にはやはりファンタジーは子どもが読んで面白いものであってほしい。
私がイギリス人で、人間的にもっと円熟していたら面白いと思うのかもしれない。
参考
https://www.goodreads.com/topic/show/2354803-the-ending
立夏 2021年10月17日
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