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生への渇望。

世間がこうなる前、ライブ、コンサートに良く行っていた。世界的有名人が来日する際はできるだけ行っていた。いつも思った。ステージに立ってスポットライトを浴びて、多くの人の拍手喝采をうけているあの人達は、まるで生贄のようだと。

公開処刑が当たり前だった時代、それは一種のエンターテイメントだった。ピクニックのように手軽に見に行く。あれ何を見に行っていたのかというと、死を目前にした人間が放つ凄まじいエネルギーをみんなで見に行っていたんですよ。"死にたくない"という叫び。その時に放つ生命のエネルギーを浴びに行っていたんです。

ステージはまるで生贄が登る処刑台に見えた。彼らは、生きたいという凄まじい生命エネルギーを放つ。だからあんなに多くの人を集めることができる。普通の人が、そうなれるわけがない。そんなに人を集められるわけがない。

あれほどの生へのエネルギーの表現…それほど彼らはおそらく普通の人よりも死に近い世界に生きている。死の世界は無の世界、神に近い世界。だからこそ強烈な個性を放つことができる。個性とは自己が薄ければ薄いほど実は際立つものだから。

カートコバーンが遺書で、何も感じないことに耐えられないと記していたように、あまりにも無の世界が近いと人は耐えられない。だからこその強烈な生への渇望。

有名になるということは、賞賛と同時に同じ量の負のエネルギーも受け取る。だからそれらに押しつぶされないだけの体力、精神力、運の良さがなければ、スポットライトを浴びる場所に行けたとしても、すぐに消されてしまう。有り余る富があってもプライベートははボロボロだったり、病気になったり、自ら死を選ぶことも…。

生で見に行こうと思っていても、いつそれが叶わなくなってしまうかわからない。なので、機会があれば必ず足を運ぶようにしていた。


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