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風の旅立つ場所

 “死んでも忘れない”。
 “ずっと想い続けてる”。
 “墓の中まで持っていく”。
 そういういろんなところで使い倒された陳腐な言葉は嫌いだった、ような気がする。この島に来る前のことは何も覚えていないから分からないけど、きっとそうだ。美しいことかもしれないが、美しいというのは往々にして外面を指して使われることの方が多いだろう。今挙げた言葉もそれと同じだ。綺麗なのは言葉だけで、実際は迷惑千万。
 既に死んだ身からすれば。

「其処からじゃ、海の向こうは見えないよ?」
「別に、そういう理由で此処に来てるわけじゃないよ」
「じゃあどうして此処に来てるの?」
「馬鹿は高いところが好きだからかも」
「じゃあ、私も馬鹿だね。私も此処が好きだから」
「………」
 そう自嘲気味に笑う彼女の横顔は、身に纏う些かみすぼらしい衣服が気にならないくらいには美しかった。
 この島の中心にある時計塔。誰も管理していない割には妙に綺麗で、外も内も目立った劣化や自然の浸食は見受けられない。誰も管理していないから塔への出入りも自由だった。この島に来てからもう随分経つが、あてがわれた家なんかそっちのけで足繁くこの塔に通っているのは彼女に言った通り自分が馬鹿だからなのだろうと思っている。
 塔の上部に取り付けられている巨大な時計盤よりさらに上は作業者用のスペースなのかちょっとしたバルコニーのようになっていて、自分は毎日此処に通って島の向こうに伸びる水平線をただ静かに見つめていた。足場の縁に腰を下ろして足を放り出せば盤で十二時が刻まれている部分に踵が当たりそうになる。普通の人間ならこんな危険な場所には絶対来ないだろうが、あいにくこの島に居るのは自分含め“普通ではない”連中だ。
「風、気持ちいいね」
「海沿いの潮風と比べれば、そうかも」
「私は潮風も好きだけどな。『あ、海の香りだ』って」
「潮風は髪がべたつくから僕は嫌いかも」
「“かも”が多いね。自分に自信がないの?」
「そんなことはない」
「そうそう、そうやって自信を持ってはっきり言う方がカッコいいよ」
「余計なお世話だよ。というか、君はどうして毎日僕のところに来るんだ?」
「君が言った通り、私は君のお世話役だから」
「もうこの島には慣れたから必要ないって前も言ったろう?」
 僕がこの島に流れ着いて最初に目を覚ました時、視界に映っていたのが彼女の顔だった。

▼▼▼

「———だれ」
「さぁ。私は誰なんだろうね」
「今居るの、砂浜みたいだけど、此処は島なの?」
「時計島《とけいとう》って皆は呼んでるね」
「時計塔?」
「建物の塔じゃなくて、時計の島って書いて時計島ね。つまらないシャレだと私も思うけど。ほら、あそこに大きな時計塔、あるの見える?」
 彼女の指さす先には島の木々や建物の屋根を見下ろすように、一際高く聳える時計塔があった。水平線の向こうに沈もうとしているオレンジ色の夕日に睨まれて、クリーム色のレンガが眩しく輝いている。
「僕はどうして此処にいるの」
「君は死んだんだよ」
「死んだ?」
「此処は、死んだ人がやって来る場所だから」
「つまり、天国?」
「ううん。永久に続く理想郷じゃない。ただの休憩所。現実で例えると………サービスエリアみたいなところかな」
「サービスエリア?」
「いつかは此処も去る時が来るってこと」
「此処を去って、何処に行くんだろう」
「多分、あの海の向こうじゃないかな」
 そう言って彼女は背後に広がる海原に視線を向ける。大きく、静かで、何もない海。魚も鳥も船もいない。見えない。感じない。きっとずっと前から。そしてこの先も。此処は終点なんだと思った。どうしようもなく零《ゼロ》。すべてが終わって、始まる場所だ。
「いつ行けるんだろう」
「時間は分からないけれど、あの時計塔が零時を指したらだね。君にはあの時計は何時に見える?」
 彼女に言われるがまま再度島の内陸側、その中心に見える時計塔を見やる。目を細めて、時計盤の二本の針が刻む時を見つめた。
「———零時一分、かな」
「じゃあ、あと一人だね」
「一人?」
「私にはね、あの時計は零時三十六分に見えてるよ」
「?僕が見間違えてる?」
「ううん。あれは見る人によって時間が違って見える。君が零時一分に見えてるならそれが君に残された時間ってこと。時間じゃなくて人数だけど」
「何の人数なの?」
「死んだ君のことを、海の向こうで今も憶えている人だよ」

 そう告げる彼女の表情は、どうしようもなく寂しかった。

▲▲▲

 この時計島は死んだ人の魂が集まる場所。
 古株の島民に聞くとどうやら此処以外にも同じような島はいくつか存在するらしいけど、それを確かめたところで意味はない。何処へ行こうと此処が死の世界であることには変わらないし、その後の運命は覆せない。
 島民は皆一様に生前の記憶を持たない。自分の名前すら。まるで廃棄処分前のパソコンから個人データを抜き取っておくのと同じように綺麗さっぱりと。此処に流れ着いた時に記憶を海に流してきちゃったんじゃないか、なんて彼女は言っていたけれど、無いものは無いしどうしようもない。
 島には島民が作った小さな町があって、流れ着いた人にはその時空いている家が一軒与えられる決まりらしい。誰が決めたのか知らないけど。
 島の中心には大きな時計塔があって、その時計盤が指すのは見た人のことを憶えている、今も僕たちに未練を残しているであろう現実に居る人々の数。それがゼロになったとき、つまり時計の針が零時ピッタリを指した時にその人はこの島から消える。

 この島から消えること。それは海の向こうにある現実世界に魂が生まれ変わることを意味している。

 魂が生まれ変わるまで一時の暇を過ごす場所。それがこの時計島だ。
 そして海の向こうの世界で生きている、死んだ自分のことを憶えている人がいる限り、この何もない牢獄のような世界で延々と過ごすことになる。決して沈まない夕日に見つめられ、時間という概念さえあやふやなこの世界で。
 暮らしているのが生前の記憶を持たない人々ならば、暮らしているこの世界もまた同じように空っぽで、あまりにも退屈すぎた。


「何か珍しいものでも見えた?」
「いいや、何も」
「ねぇ、此処はあの世なんだよね」
「君が僕にそう教えてくれたじゃないか」
「あの世だとしたら、天使さんも探せばいるかもしれないね」
「『実は隣にいるのがそうかもしれないよ?』とでも言うつもり?」
「不正解。君は、天使って見たことある?」
「見たことないし、見てたとしても覚えてないよ。君だってそうだろう?」
「うん。私も見たことないし、見たとしても覚えてないよ。でもこの間少しだけ思い出したんだ。いつか“向こう”で私が知ったこと」
「それはなに?」
「天使って、皆が思ってるような頭に輪っかが浮かんでて背中に羽が生えた綺麗な人みたいな外見じゃないんだって。今いるこの塔よりも大きな目玉に、何枚もの大きな白い羽が生えてるんだってさ。想像したら怖くならない?」
「確かに怖いね。今それがあの空に現れたら驚いて此処から下まで転げ落ちちゃいそうだ」
「もう死んでて良かったね。落ちても死なないよ」
「試したことはないから実感もないけどね」
 いつも通り沈まない夕日に見つめられ、僕と彼女は塔の上でとりとめのない話をしていた。町の方に行けば他の島民たちの声も聞こえるし、浜の方に行けば海の潮騒が聞こえるけど、今この場所においては僕たち二人の声以外には本当に何も聞こえない。無だ。
 彼女にも言ったが、僕は海の向こうにあるいつか自分が生きていた、あるいはこれからまた生きることになる場所を見ようとして此処に来ているわけではない。
 待っているんだ。風を。
 二人だけしかいなかったこの場所に、三人目の客がやって来た。

 ———……はさぁ、ホントラジオ好きだよね~。
 ———ねぇ、私と一緒に旅行しない?
 ———嘘つき………、嘘つき……っ!!

「———ねぇ」
「なに?」
「僕、ラジオが好きだったみたいだ」
「この島にラジオは流れてないよ?」
「向こうにいた頃。今思い出した」
「あ、ひょっとして今の“風”?」
「うん」
 “追想の風”。島民たちはそう呼んでいるらしい。
 時々どこからか風が吹いてくる。海からなのか空からか、それは分からないのだけれど。その風を感じたとき、記憶にないどこかで記憶にない誰かと過ごした記憶がふと浮かび上がるときがある。島民全員が一度に思い出すというわけではないようだけれど。海の向こうで自分達を憶えている人の記憶が風に乗ってこの島まで運ばれているんじゃないかって言われている。
 僕はそれが目当てでこの時計塔に通っていた。最初にこの島で“風”を感じたのが此処だったから。
 とはいえ、思い出せるのは本当に断片的な記憶だけ。自分が何者だったとか誰と過ごしていたのかとか、詳細なことは何一つ分からない。知ったところで何かが変わるわけでもない。だがそれでも、自分は知りたかった。“向こう”で死んだ自分のことを未練がましく忘れられていないのがどんなヤツなのか、興味があった。
 それにこの何もない島では、それくらいしか僕がしたいと思えることはなかったから。
「ラジオって、結構単純な仕組みで作れるんじゃなかったっけ。鉱石とかあれば」
「放送局もないのにラジオだけ作っても意味ないだろう?それに思い出せたのはラジオが好きだったっていうことだけで、どんな番組が好きだったのかまでは分からない」
「でもそういうのがあれば、少しはこの島も楽しくなるのかな」
「そうかもしれないけど、新しい何かを作るためのものが何もないからね。此処は」
 生きているものが存在しないこの世界には、文明的なものはまったくと言っていいほどない。簡素な居住地と自然のほかにはこの時計塔と、あとは島を囲む広い海だけ。それがこの世界の全てなんだから。
「あ、動いた」
「なにが?」
 まるで妊婦みたいな台詞だと一瞬思いもしたけど、この世界に新しい命なんてものは存在しないし生まれることもない。
「時計の針」
「そうなの?」
 足元に鎮座する時計盤の針に目をやるが、自分の目には相変わらず零時一分を指しているようにしか見えない。というか、それが動いたのだとしたら自分はその瞬間この島を去っているはずだ。
「今ね、零時十四分」
「あと十四人か。向こうにいた頃の君は随分有名人だったのかな。後から来た僕よりも憶えてる人が多いし」
「覚えてないから分からないけど、悪い気はしないよ」
「そうなの?僕は腹が立って仕方ないけど」
「どうして?」
「自分の記憶にない誰かがいつまでも未練がましく自分のことを引き摺っているせいで、僕たちはこんな何もない退屈な場所でいつ終わるか分からない足止めを喰らっている。そう考えたら嫌にもなるだろう?」
「………それはそうかもね」
「君は、この島で過ごすのが楽しいのか?」
「楽しいかは分からないけどね」
 でも、と彼女は続けた。
「死んだ後まで自分のことを考えてくれる人が居てくれるって、幸せなことでもあると思うんだ。生きていた時、その人たちがいてくれたから私はきっと寂しくなかったんだろうなって」
「一緒に居てくれた人たちのことをもう覚えていなくても、君はそう思うんだね」

 彼女の言いたいことは理解できた。
 けれど僕はやっぱり共感できなかった。
 生きているときは生きているとき。死んでいるときは死んでいるときだ。文字通り住んでいる世界が違う。もういないものはいないんだって、区切りをつけてさっさと諦めてくれないと僕たちはどこにも行けない。そのせいで本来あるべき魂の循環が停滞しているというのなら、やはり間違っているのは“向こう”に居る奴らだ。


 今日も、僕は“風”を目当てに時計台に登った。いつも通り少し遅れて彼女がやってきて、当たり前のように隣に座る。一体いつまでこんな日々を過ごせばいいんだろう。僕がこの島にやってきてどれだけ時間が過ぎたのだろう。空の色も自分の身体も何も変化しないこの世界ではそれも分からない。時間の感覚が分からないというのは本当に気が狂いそうになる。
「私ね、時々思うんだ」
「なに?」
「実は私達、まだ死んでないんじゃないかなって」
「そうなの?」
「分からないけどね。もし私達がまだ死んでいないのに此処にいるとしたら、本当に死ぬのはいつなんだろうって考えると—――」
「この島から消えるとき」
「そう。だから、“向こう”で私を憶えてくれている人たちっていうのは、私をどうにかして此処に繋ぎとめてくれている人たちかもしれない、って考えたりするんだ」
「だとしても繋ぎとめる場所に悪意を感じるよ。こんな何もない世界じゃ、生き地獄と変わらない」
「じゃあ、此処を楽しい場所にするにはどうしたらいいと思う?」
「え?」
 彼女にそう尋ねられて、僕は返す言葉を失った。
 海に囲まれた決して大きくはないこの島。文明的なものはほとんどなく、この時計塔の高さから見ても船で外に出たとしても他の陸地を探すことだって困難を極めるだろう。そんな場所でどうやって楽しみを見出せというんだ。
「ごめん、僕には思いつきそうもない。君には何か考えがあるのか?」
「そうだね。たとえば、もう死んでいるらしい今の私達はこれ以上死ぬことはないから、また“向こう”に行く前に来世一生分この時計塔から飛び降りてみるとか」
「最初はいいかもしれないけどすぐに飽きそうだ」
「え~、そうかな」
 そう言いつつも宙ぶらりんになった足元を見る。改めて見ると本当に恐怖しかない高さだ。もう死んでいるというのに来るはずのない死に恐怖するというのはなかなか滑稽だと自分でも思う。
 馬鹿げた考えを振り払うように視線を茜色の空に戻した時、どこからか懐かしさを感じる風が吹いてきた。

 ———私、欲張りなので。
 ———誰かに左右されるのは嫌だもん。
 ———……のそういうところ、好きだよ。

「———君のそういうところは嫌いじゃない」
「そう?嬉しい」
 彼女は満更でもなさそうな笑みを浮かべる。
 僕は、今思い出した記憶にない誰かが憎々しかった。“誰かに左右されるのは嫌”だとか以前言っていたようだが、今はどうだ。もう死んでしまった自分のことを未だに引き摺ってしまっているじゃないか。何処にも行けてないのは自分もだが、その知らない誰かもそうだ。誰も得をしていない。実に不毛だ。
 そんな自分の苛立ちが顔にも出ていたようだった。
「どうしたの?そんなムスッとして」
「今また少し思い出したんだ、“向こう”の誰かのこと」
「嫌な思い出でも運ばれてきた?」
「思い出そのものはそれなりに綺麗かもしれないけど、今となっては忌々しい」
「酷い言いようだね。良かったら聞かせて?」
 彼女は慈しむような目で僕を見つめる。彼女のことは特別気にかけているわけではないし、毎日こうして自分の元を訪ねてくることに対して疎ましさが全くないわけでもないのだけれど、いつも話し相手になってもらっている手前無下に断ることも憚られた。
「———今も僕のことを憶えているらしい知らない“誰か”は昔、『誰かに左右されるのは嫌』って僕に言ってたらしい。耳心地の良い言葉だよ。傍から聞いている分にはさ。だけど今は違う。死んだ僕のことを今も忘れられていない。もう自分と同じ世界にはいない僕のことを振り切れていない。口では大層な言葉を並べておいて、いざ僕が居なくなったらこのザマかって腹が立つよ。その人の“弱さ”が今も僕を此処に縛りつけているわけだからね」
「………その“誰か”は、よっぽど君のことが好きだったんだろうね」
「どうして?」
「だってこの島に流れ着いた時点で、君のことを憶えていたのはその人一人だけだったんでしょう?他の人が君のことを過ぎ去った思い出に変えても、その人だけが今も君のことを想い続けてるってことじゃないかな」
「一方的な愛は時に相手を苦しめる」
「かもね。君がそう思うのなら、その人は良いことをしているわけではないのかもしれない」
 彼女は気分を変えるように立ち上がると、一度大きく背伸びをした。
「君は、私といつもこうして此処で過ごすことについてどう思ってるのかな」
「どうって」
「私ね、最初にこの島に君が流れ着いた時、君はきっとすぐに此処からいなくなるんだろうなって思ってた」
「どうして?」
「君に未練を残している人が一人しかいないっていうから。単純に比較できる話じゃないけど、やっぱり此処で過ごす時間とその人を憶えている人の数は比例するところもあるし」
「………そうかもね。実際僕もすぐに此処を去るんだろうと思っていたよ」
「でも、君は今日までずっと此処に留まり続けてる。君を今日までずっと想い続けているたった一人の誰かがいるから」
「………」
「人の意思の強さっていうのかな。たった一人で此処までするその“誰か”のこと、純粋に凄いなって思ったんだ」
「君にだって、同じように君を忘れられない人たちがいるだろう?十四人だっけ」
「うん、でも私は君よりも沢山そういう人が居てくれたから、一人一人の重みみたいなものがふわふわしてたし」
「まぁ、記憶も曖昧なわけだしね」
「うん。だから毎日こうして君と此処で会うたび、私も君も知らないその“誰か”が今日も君のことを考えてるのかなって思うとね、人はどこまでその人を想うことができるんだろうって、少しだけワクワクするんだ」
 君には悪いけどね、と彼女は付け加えてさらに言葉を紡いだ。
「私はね、君とこの場所で一緒に過ごすことが楽しいんだ」
「それは、悪くは思わないけど」
「でも特別嬉しくもないんでしょ?」
「まぁ、うん」
 歯切れの悪い返事を返すことしかできなかった。僕自身は今まで彼女のことをこれといって意識してはいなかったし、彼女の方も自分のことを話すことはあまりなかったから。だからそんな風に僕のことを見ていると言われて、戸惑わないわけがなかった。
「あ、また動いた」
「時計?」
「うん。あと、九人かな」
「僕より九倍長く此処を楽しめるよ」
「君の“彼女”がこれからも頑張ってくれることを祈ってるよ」
「は?彼女?」
「君を憶えてるその人って、きっと同い年くらいの女の子だと思うよ?」
「どうして?」
「んー。同じ女としてのカンかな」
 そう言って彼女はクスクスと笑った。
 もうすっかり見慣れたはずだった彼女のその笑顔は、いつもの二割増しくらいに美しく見えた気がした。なぜだろう。




「今日も風が気持ちいいね」
「潮風と比べればそうだね」
「君、本当に潮風嫌いだよね」
 今日も僕は彼女と肩を並べて時計塔から水平線を見つめていた。彼女と此処に来るようになって、もうどれだけの時間が過ぎたのだろう。頭で数えたり考えたりすることも億劫になる程度には、長い時間だ。
「ねぇ、この風ってさ、どこからやってくるんだろうね?」
「海の向こう、って前に言ってなかった?」
「そうだったね。じゃあさ、風が“向こう”から此処にやって来るってことは、此処から“向こう”に行くこともできるんじゃないかな」
「それは、僕たちがこの島から消えたときの話?」
「それもそうかもしれないけど、ひょっとしたら今の私たちが私たちのまま“向こう”に行くことも出来たりとか」
「死んだ僕たちがあっちに行けたら、それはきっと幽霊だ」
「でもさ、もしそれができたとしたら、君が気になっている“彼女”にも会いに行けるんじゃない?」
「話としては面白いね。まぁ、その風の通り道を見つけないことにはどうしようもないけど」
 いつも通り、二人でそんなとりとめのない話をしていた。
 でも、僕たちは既に気付いていた。
 二人でこうして一緒に過ごせる時間は、もう決して長くないだろうということ。
 “向こう”で彼女のことを憶えている人数は日に日に減り、僕と同じく残り一人になっていたから。
 隣にいる相手が明日も自分の傍にいるとは限らない。人なんてそよ風が吹いただけであっさり死ぬことだって時にはある。それは遠い昔に僕たちがあの海の向こう側にいた頃だってそうだったはずだ。なのにこうして残された時間が数字で示されるだけで、どうしても寂しさが拭いきれなかった。
 これじゃ、ずっと僕のことを憶えている“誰か”とさして変わらない。
「あのさ」
 彼女がふと口を開いた。
「なに?」
「今いる自分が自分じゃなくなるのって、どんな気分なんだろうね」
「どういう意味?」
「此処を出て“向こう”で生まれ変わったら、私はきっと今のままの私じゃいられないよね」
「生まれ『変わる』って言ってるしね。何も変わらないなんてことはないと思う」
「だよね。じゃあ、今私をこの島に繋ぎとめてくれている最後の一人は、私を私のままで居させてくれてる人ってことだよね」
「そう、かもね」
 誰かが自分を忘れないことで、今の自分のままで居させてくれる。
 そんなの、考えたこともなかった。
「でも、自分が何者なのか忘れているのに」
「私ね、思い出したんだ。自分の名前」
 そう言って彼女は嬉しそうな、けれど同時にどこか少し寂しそうな顔でこちらを向いた。
「そうなの?」
「うん、名前だけだけどね」
「君は“向こう”でなんて呼ばれていたんだい?」
「私の名前は—――」
 彼女の言葉は最後まで聞き取れなかった。
 彼女が自分の名を告げようと唇が動いた時、いつものそれより少し強い風が何処からか吹いてきた。急な来客に驚いて僕は一瞬目を閉じてしまった。彼女の言葉の続きも、躍る風の騒音に遮られてよく聞き取れなかった。
 風が過ぎ去り、場が静寂を取り戻したとき。目を開くと、僕の隣には誰もいなかった。まるで最初から誰もいなかったかのように。
「———行ったのか」
 “向こう”で彼女を憶えている人が居なくなった。だから彼女は旅立ったんだ。新しい始まりを迎えるために。
 きっと、僕が知らない姿で。
 もう僕が知っている彼女は、この世界にも向こうの世界にも何処を探したっていないんだ。
「………っ」
 喪失感、そして孤独感が胸に渦巻いていた。
 いつだって、何処でだってそうなんだ。見送られるより見送る側の方が辛い。そういうものだろう。死んだ後まで、こんな思いをしなくちゃいけないのか。置いて行かれる寂しさ。心通わせた相手と別れる切なさ。何もないこの場所に一人残された虚しさ。これが、“向こう”で僕たちのことを憶えている人々も感じた気持ちなのか。僕たちと別れたときに。
 僕の中にあった喪失と孤独は、やがて怒りに昇華されていく。僕が今こんな思いをしているのは、“向こう”で今も僕のことを忘れられていない“誰か”のせいじゃないのか。そいつと同じ思いをこの時計島でさせられているんじゃないのか。もしや、此処は死んだ人の魂がそういう“罰”を受けるための場所なんじゃないのか。
「———なぁ、どうして君は僕を忘れてくれないんだ」
 その時、また“風”がやって来た。追想の風が。

 ———どうして………っ、どうして私を置いていくの………!
 ———……と一緒に居られて、楽しかった。
 ———ずっと、忘れないから!!

 風に乗って運ばれてきたのは、僕が知らない誰かの悲痛な声。
 知るか、そんなの。
 僕はもう、君のことなんて憶えてないんだ。
 迷惑なんだよ。
 だから。
「………早く忘れてくれよ、僕のこと」
「君を置いて先に逝った僕への当てつけなのか」
「なぁ、忘れてくれよぉ………っ」
 僕は、いつまで此処にいればいいのだろう。
 一体あとどれだけの人を見送ればいいのだろう。
 彼方にあるあの夕日を、此処からあと何回睨みつければいいのだろう。
 この場所で、“風”を待ち続ければいいのだろう。

 足元で静止している時計の針は、今も頑なに動くことを拒んでいるようにしか見えなかった。

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