障害者=何もできないという意味の本質

障害がある人という話題はなぜかタブーになっている。
いや、タブーであってほしいという意識の誤りか。


冷静になって考えてみよう。

障害がある人間=何もできない=何もできないから社会や世界は滅ぶ、という簡単な論理ぐらいは誰でも理解できるから、

障害は、事前に防ぐ&いたら隔離という判断がおそらく主流なのだろう?

しかし、そもそも流れとして生まれた後に障害者は自分が障害があるかどうか親に調べられてわかるわけだから、親が自分の子に対して障害が無い健康的な子として生まれてほしいと願望を祈る=プラシーボ効果ではないのか?

人に忌み嫌われる精神論の中で数少ないきちんとした効果がある体系の一つがこのプラシーボ効果だ。医者でもよく口にする。

しかし、精神論を肝に社会を築き上げると、合理的で無駄がない組織に負ける、及び負けやすくなる。

今の世の中がどれだけ下らなくても、それまでに至った物があるから続いているわけで、その人達(先人)は無駄な事は何一つやっていないはずだ。

【結論】                              生きていけるから生きていけるだけのインフラを誰かが整えてきたはずで、それを教えていないのは何故だ?いや、仮に教えていたとしても病気を治せる社会を目指す志を持つという結論に至るはずなのでは?
現実と理想が隔離している……。




インフラ以外にも、香辛料などを売る等の商人も何かを見つけ取引し生産してきたから今も流通しているわけで、職業が成り立つために健常者である事またはそのレベルに至ろうと思えば至れる程度の体力があり、どんなに遅かろうとウサギと亀理論で物を運べいずれは目的地にたどり着けるなら、障害と言うのはその本質的に【動けるか】、【動けないか】が争点なのだ。

IQが低い者は物と物の組み合わせや状態がうまく理解できない事で知られているが、それは賛同者がいるいないに関わらず【人間になったのが初めての他の動物だから】、という例えで解説できる。食物連鎖のトップは人間だが、それは社会を築き上げたからそうなだけで、一度自然に出ると人間は牙も爪も走力も筋力も無いわけだから他の動物に劣る。

要するに、健常者は健常者で自分が都合の良い物だけを見て悪い部分は見ていないのだ。自分が動物と争う、なんて現代人は思ってもいないだろう。

【結論】                              つまり病気などの障害があったらたとえ健常者でも思ったようにうまく動けなくなるから、【多少障害があっても生きていける➡多少障害があっても生きていける=この世界は最初から十分すぎるくらい豊か】、という理論が成り立つのだ。そしてそれがおそらく真。

我々は障害者だらけで何もできない人間の事をシミュレーションでしか見た事が無い。
人は何かをし、何かができる事が当たり前で、それ前提の社会を築き上げているのにもかかわらず、なぜ方法論に固執し人を非難するばかりなのか。



その人がどういう心の感じ方をしているのか見ている健常者側は理解できないから負担がかかるだけの厄介者(障害者)は殺す、という判断は、
社会的決断であり、世の中が発展し他の事を考えられる余裕を得られる時代になるまで解決不可能な問題だった。

しかし今はどうか?

昔の偉い人達が議論していた事を誰もが言える時代になり、一つ一つ知らないといけなくなった。

最初から何かを理解している人間と少し、それなりに、かなり理解していない人間の違いはなんだ?

こんなのただの論理のはずで……一人でいなきゃいけない事に何か意味があると?

そのように解釈しなければやってられない。

結局現代人は経済というもはや精神概念になった厄介極まりない仮想敵を排除する事に忙しくて、それ以外の思想に触れてないからうまくいかないのだろう。

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