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他人と自分の見えない線。-違いを突き放すのか、抱きしめるのか-

誰かと分かり合えない時、
理解してもらえない時、
無意識のうちに「自分と違う」と相手を遠ざけているのかもしれない。

ふとした会話がきっかけで、ある小説にそんな事が書いてあったのを思い出しました。

違うことはあっても、拒絶しているのは自分自身、そんなことも小説に教えてもらった気がしています。

その小説の事、僕が感じた事を書いてみようと思います。

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<見えない線を引いてしまう>

その小説に登場するのは耳の聞こえないバイク乗りの女性。

その女性は幼い頃、耳が聞こえないことを父親に嘆いたことがありました。

「耳の聞こえる人と私の間に線がある、その線を越えて向こうに行けない。」

悩むその子に父親はこう語りかけます。

「そんな線はどこにもない。もしあるとしたら、それは耳が聞こえる人たちが引いた線じゃない。お前が勝手に引いた線なんだ。そんなもの越えて行け。その為には…。」

そうした父親のアドバイスを受けて、女の子は父親と一緒にバイクに乗ります。

風をきって、どこまでも進んでいく。

女の子はバイクと一緒に見えない線を越えていけるようになっていきました。

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この小説は原田マハさんの「さいはての彼女」という作品です。

ここで登場する女の子のように、相手を"違う存在"だと意識した時、その原因を相手や周りの環境に押し付けて自分を守ろうとすることは日常でも身近な事のように僕は感じます。

でもその違いから、自分と違う人間全てに線を引いてしまう事は本質的な解決には繋がりません。

そうして原因を全て周りに据えて行く事で、どんどん独りよがりになってしまうのではないでしょうか。

解決には原因を他人に押し付けるでも、原因を自分に抱え込む事とも違う、お互いの違いをお互いの魅力として捉えることが必要だと感じています。

違いを感じた上で、
見えない線を認識した上で、
その線を踏み越えて歩み寄る。
それこそが自分の生きやすさにも繋がるのではないかと思います。

<違いを抱きしめる>

人は異質な物よりも同質のものを好みます。
それは同じである事が共感や仲間意識を生み、充足感や安心に繋がるからだと僕は考えます。

でも同じである事で満足する以上に、違いを抱きしめ、発見や刺激を自分に与えてくれる存在と生きて行くことも同様に尊い事ではないかと思います。

この作品に限らず、小説は自分に新しい視点を持たせてくれる、だから物語に触れるのは好きです。

僕は個人の感じ方、視点や歪みこそが自分という存在を創り、自分の存在を発信する事で価値と呼べるものになると信じています。

でも、それがただの独りよがりにならないように周りの視点や声を感じれる存在ではありたいと思います。

他人との"違い"を
突き放すのか、抱きしめるのか。

抱きしめられる人間で、僕はありたい。

ライ

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