だれかのための私のためのだれか: 「脱共同体化」「再共同体化」そして社会統合
社会システム理論自主ゼミの開催報告です。今回はドイツいるメンバーの方が書いてくださいました✨
はじめに
ヨーロッパではまだ午後も始まったばかりだというのに外は暗く、議論に白熱して気がついたら日が沈んでいるというような2021年暮れの様相です。参加者は就活・卒論・人間関係の悩みなどを抱えていることを会の最初に吐露します。こうした挨拶がてらのオープニング・トーク、これらがまさに理論的な議論の中で個人に特化された具体例を供給しました。こうした一般理論としての包括性が必ずしも平易ではない社会システム理論を学んでいくことの魅力です。
以下、なるべく全員の発言の正確性に留意を払ったつもりではありますが、一参加者としての見解であり全体の総意ではないことを、お読みくださる際はご承知ください。
今回の自主ゼミで取り扱われたのは12章「社会統合(social integration)とはなにか」です。筆者はドイツの旧東側であった州に渡った際に「社会統合コース(social integration course for immigrants)」に所属してルーメニア、ベトナム、シリア、クルド、トルコ、アフガニスタン、イランからやってきた移民・難民の人たちとともに半年間ドイツ社会への「統合」を目指しました。その際、いったいインテグレートされるとはどういったことなのかなどと悩みながら過ごしていましたので、思い入れの深い語です。
共同体的社会と脱共同体的社会
1時間半の議論ですが、「共同体とはなんなのか」をめぐる解釈に焦点が当てられました。特に取り組まれたのは、テキスト最終部における共同体的社会と脱共同体的社会の二項対立:
“共同体的な社会であるほど、社会統合を「行為の統合」だと見做し、 行為が予期外れを来すこと自体に激烈に反応しがちです。他方、脱共同体的な社会である ほど、予期外れ云々より、どんな制度的予期を信頼できるかに専ら拘るようになります。(…) 社会統合を「行為 の統合」と見做す共同体的な価値観と、見知らぬ者との多種多様なコミュニケーションを 前提とする近代の複雑な社会システムとが、両立しがたいこともまた理論的事実です”
そして“どんなに銃による殺傷があろうが、ルールに従った処理が円滑になされる限り問題はない”アメリカと、そうした処理が円滑になされず、“どんな場合に司法を呼び出せるのかがアドホックな共同体の反応を参照せずして決まらない”日本という対比です。
「社会統合」というテーマに関して言えば、複雑な社会における逸脱行為(e.g.銃乱射)は統合の撹乱を意味しません。この複雑な社会はユダヤ・キリスト教的伝統、それから宗教改革を経た西洋近代の社会(moderne Gesellschaft)観を前提にしています。しかし単純な社会、もしくは前近代的共同体(Gemeinschaft)において、逸脱行為は社会統合への撹乱を意味します。なぜか、前者の社会統合が意味するのは「予期の統合」であるからです。対して、後者の社会統合が意味するのは「行為の統合」です。前者はアメリカ的であり、後者は日本的であるとされます。
そうであれば、共同体の規範に拘束される日本においては、おのおのは自らの行動を集団に同調させることに気を払い、そこから外れる他者を糾弾するようになります。銃乱射の例であれば、発砲は社会への挑戦・社会統合を根本から覆すものとなります。しかしアメリカでは、もちろん発砲は違法行為ではありますが、これは法が想定する範囲内です。社会統合を覆すことはありません。テキストは2004年に書かれたものですが、コロナ対策におけるアメリカと日本の違いなどが例としてよりイメージしやすいものではないでしょうか。対策に従わなければ刑法で罰せられるアメリカ、集団からの追放を恐れて規範に従う日本、刑法は存在せずとも。どちらが規範的に良いか悪いかは一概には言えないですが。
そうした中で一つの疑問が提起されます。つまり、「果たして日本はほんとうに共同体的なのだろうか」という問いです。この問いには、
ノー、自分たちは近代化を遂げ、複雑な社会を持っている。都市化や中央周辺化も成し遂げたし、断じて前近代的な共同体によって動いてなどいない、そもそもどこにそんな自分が帰属できる共同体があるというのだ?という考え方がある一方、
イエス、たしかに共同体的だ。たとえ目に見えた昔ながらの共同体はなくとも、価値観としての「ムラ」は今も存在する。共同体規範への従属、同調、それは近代化された今も自分たちを動かすものだと考えることもできます。議論では、後者の考えがもっともだろうと合意しました。
日本のこれからの共同体とは?
しかしそこでさらに問いにぶつかります。後者が正しいのなら、自分たちの社会は共同体をもはや解体してしまったにも関わらず、従来の共同体的規範を保ち続けているという点です。空を見上げればビルがある、車は所狭しと走り、地面はアスファルトに覆われている、人々はスマートフォンに目を落とし、スクランブル交差点を歩き…けれど自分たちを支配するのは「ムラ」の感覚なのか。
これは丸山真男(日本の思想)等がいうところの日本人の特性、曰く物質的な近代化は成し遂げたが、精神面では近代化はしていないという議論と類似したものかもしれません。同様に、近代化されたはずの日本は社会ではなく世間である(cf.柳田國男)という議論も思い出されます。宮台真司はこうした中で、社会(Gesellschaft)と個人(Individuals)はユダヤ・キリスト教的伝統の上に成り立つ概念であり、その中で欠かせないのは「神」もしくは「絶対者」の視点であるから、そうした伝統を持たない日本ではゲゼルシャフトとしての「社会」はありえないと強調します。
しかし(縁)共同体的で(利益)社会的であるなどどうして可能でしょうか(Gemeinschaftliche Gesellschaft?)。日本の会社(corporations)の特殊的形態の議論がこれに続きます。明治期の国民国家化と戦後の行動経済成長期に農村は解体、人々は都市に集中します。都市では人は利益でつながります。そこでは人は自由です。共同体がおのおのを拘束することもない、しきたりも慣習もない。しかし今まで共同体がおのおのに与えてきた人生の意味は自明ではなくなります。また、パートナーシップ、家族形成、職業選択、こうしたものの同様です、自らが選択せねばなりません。しかし何に従って?共同体からは解放されて[おのおの]は[個人]となりますが、以前のゼミで扱われたようにここでは人は第三の不自由に直面します。主体的選択を求められ続けるが、いったい主体性を養うリソースがどこにあるというのか。この自由から逃げたい。こうした中で、戦間期ドイツ・ヴァイマール帝国で起こったのが「自由からの逃走」(エリヒ・フロム)でした。都市にでて、生活は豊かに、選択肢は増えた、しかし何かが違う、自分の人生の意味は失われている。そうした自由の重みに耐えられない人間はかつての共同体的なものを求めた、そうフロムはいいます。しかしドイツにはもはやかつて[おのおの]を抱擁していた共同体は解体されてありません。そうした心理的背景と経済的不況の中、やってきた国民社会主義ドイツ労働者党(通称NAZI)は「国民共同体」という概念を打ち出します。これは多くのドイツ人に魅力に映りました。これは似非共同体にすぎず、かつての農村共同体とはことなります。しかしその空想の共同体に帰属すれば、[おのおの]はもはや[個人]としての重みを背負うことはなかった、彼女・彼がかつてヴィルーマス・ドルフ村の農民であったかのように、彼女・彼はドイツ人です。彼女は選択してそうなったのではありません。彼はドイツ人としての逃れられぬ運命を「自覚」したのです。フロムが語ったこのようなメカニズムは、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』で説明されたものでもあります。
これは共同体を求める個人の極端な例かもしれませんが、戦後都会にやってきた日本人もまたこのような心理状態に置かれたのではないでしょうか。そうして彼らに共同体を与えたのは「会社」でした。冠婚葬祭まで面倒を見てくれる、ならば(時に家族さえ犠牲にしても)その会社のために尽くそうと思えるだけの帰属感がそこにあったのだと思います。かくして、都市化されても「ムラ」としての規範は存続しました。それは「電力業界ムラ」や「〇〇業界ムラ」といったものに象徴されるものです、そこにパブリックは存在せず、そのセクションの利益の追求という目的が存在します。しかしセクションの利益追求さえも個人の利益に繋がるもの(船での座席争い)かもしれません、そうだとすれば、集団主義的でかつ超個人主義的であるというレトリックが成立します。こうした中で、参加者の方からは利己的であるということと利他的であるということは対立概念ではなく、利己的かつ利他的であることが可能であること、同時に、利他的に見せかけて利己的であることなどもありうるという意見がありました。筆者は全く同意します。
“「自立した共同体」がダメになれば「自立した個人」がダメになり、「自立した個人」がダメになれば「民主制の健全な作動」がダメになる(宮台2014: 私たちはどこからきて、どこへ行くのか)”
しかし精神面・物質面両方による脱共同体化が近代化と個人化に不可欠であるということと同時に、上記引用が示すように共同体なくして自立・自律した個人はありえません。この一見矛盾したような考えを共同体の類型化により解くことができます。つまり、①地縁・血縁による選択の余地がない旧来のゲマインシャフト的共同体と②個人が主体的に帰属を選択できる余地のあるアメリカ的なアソシエーショナルな共同体です。前者の共同体をある程度解体することが工業化には不可欠であると同時に、その先の分断化された社会=ゲゼルシャフトでの個人はドイツのようにナショナル排外主義(ショービニズム)に行き着く可能性があるため、この段階から国家と個人の間に②の意味での中間的な共同体を置くという考えです。このテキストが書かれた2004年にはトランプ現象もブレクジットもなかったですが、少なくともこの時代においてはこうした個人の意思によって入会する共同体によって支えられる社会が民主主義を機能させるのだ、といえるだけの社会をアメリカが構築していたのだと考えることができます。その際、前者の共同体は「国家の道具」です。後者の中間共同体は「国家を道具とする主体」(ibid.)です。
ステップ・ステップ・ステップの小さな共同体
こうした意味での共同体を構築することが自分たちにいかに可能でしょうか。自分たちはまさに、ムラ的規範はあるのに、目に見えた共同体はないよねといったことで一致します。良き共同体なしにはよき個人はあり得ない、しかしそのような地域はどこにも見つけられないから、まずは自分の周りの人間関係から始めるしかない。そうした人間関係を築くためにも、まずは自己尊厳の肯定をせねばならない、ステップ・ステップ・ステップで果てしない話だという意見もありました。本当は矢印の向きが逆のはずなのに。また、先週の講演会であった、生きづらさへの対処に囚われている状態では公共性を志向しようがないという話にも関連し、ならばまずは自分の問題を解決せねばということになりますが、個人の問題は社会が与えた問題でもあります。こうした鶏か卵かの話の中で、できるだけ個人の実存の問題が、「公」の改良と結びつくようにいかに自分自身を定義できるか、類似した言い回しで言い換えれば利己的であることが同時に利他的であるようなエゴをどれだけ実現できるのかということが自分たちに求められている課題であると感じます。自身の格率が常に世界の法則であるように(カント)、道徳感情を伴い、自然と調和に導かれる見えざる手が働くような自己利益(スミス)…
そうはいっても、そうしたことがいかに難しいかはある参加者の方が架空の人間関係(ABC)をもとに例示されました。
(別の参加者が後日まとめてくださった文書)
「AがBに依存し、離れられない、そのときAの幸せのためにCはどうすべきか。」
この問について考えるにあたり、フロムの愛するということを読んだ。
フロムによれば、集団における適応によっては偽りの同調しか得られない。我々の孤独感は愛による一体化によってのみ解消される。また、人を愛するということは自分のようにあらゆる他者を愛することであり、愛には成熟度がある。
逆に自分を愛せない人は他人を愛せない。
恋愛にとって愛は一部分でしかなく、欲望の消極的解消のための恋愛がほとんどである。また、愛はあたえるものであり、その能動的性質は配慮、責任、尊重、知である。
この前提に立てば、Aを幸せにするためにCには成熟した愛と技術が必要なのである。
ここでAを幸せにするためにCができる能動的性質について考える。
配慮においては、Cが与える意思、知識、感情についてAがいかに理解するかという事について気をつけて伝える必要がある。
責任においては、いまAの問題は何で、どう克服し成長すべきかという事について理解することだ。
尊重においては、責任の共有と課題の相互理解に徹底し、お互いの認識の齟齬を最小にした上でAの意思決定を尊重する。という事だ。
知においては、Cが自身の愛の成熟度と自己の心の動き方について経験と学習を積むという事である。
以上のことから、Cが相手の幸せの為にできる事は、「感情を刺激しないようにわかりやすくCの考えと知識を伝え、その上で意思決定を委ね、去るものは追わない」ということなのではないか。
Cが愛に関する能力の改善をするとすれば、相手を確実に幸せにできるという自信と、それに包括された恋愛の技術を身に着け不言実行するという事なのではないか、と考える。
しかしながら、そうした損得勘定の利己心でまわる社会では「足るを知る」ことこそがキーワードだという見解を持たれる方もいました。同意見です。
結論
こうした共同体と社会統合をめぐる議論の中、自分が置かれた就活・人間関係・進路などといった状況と照らし合わせ、活発な議論が行われました。共同体から離れること、そして社会を形成すること、その先にもう一度共同体を構成すること。なぜなら、自分が貢献したいと内発的に思えるような共同体が存在することが、その先の健全なパブリックに繋がるから。だとすれば、いかに個人を不幸せに、拘束のできるだけ少ない共同体が構想可能か、きっとそのためには自分の身の回り、および自分自身への取り組みが必要だろう、そういったことが確認されました。社会システム本流の議論とは逸脱しているかもしれませんが、各自が事前にテキストを読んでいるという前提のもとの会です; 宮台先生のアクチュアルな発言等も踏まえながら、テキストに書いてあることの現実への適応ということに焦点を当て議論をこれまでに行ってきたと思います。これからはより『社会としての社会』、『宗教としての社会』など、ルーマンの社会システム理論の応用・具体的理論に入っていきます。皆忙しい中ではありますが、より活発な議論を期待し、議事報告とさせていただきます。
(著者作成のスライドより)
感想
・現代社会は居場所なき者の受け皿がすでになく、現在は個の強さ、パートナーシップ(年齢男女関係無し)を築けるか、良き共同体の再構築の時期(とても難しいが)にきているのかと思いました。
・今回のお話はやはり共同体というのがキーワードだったかと思います。問題提起のように、では今(2021年現在)の日本はどこに当てはまるのか?というのが大きな問いであるように感じます。また前の話題からになってしまいますが、都会と地方の分断がある現在の日本では、おしなべてこうだとは言いにくいような気がします。そこがまた理解を難しくしている原因なのでしょうか。
・工学的なバックグラウンドのせいで、ひたすら解決策ばかり考えてしまう中、皆さんが理性的に問題分析されていて興味深く刺激的な会でした。
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