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日本と中国の感性の差

最近は、仕事の隙間時間で、唐代の漢詩とか、日本の西行の和歌について調べている。
それで、ちょっと気がついたのね。

同じ、東洋の文化圏で、漢字を書き言葉に選んだ両国だけど、感性が全然違うって。
当たり前のことだし、みんなとっくに気がついていると思うんだけどね。

例えば、あの有名な漢詩

春望<杜 甫>

國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す

それと、西行の最も有名な歌

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ

どちらも、春を題材にした壮絶な歌だけれど、スケール感が違う。
漢詩は、俺が調べた限り、皆んな壮大で、写実的なものが多い。それに比べて、和歌は、細かな季節の移ろいなどに自分の心の動きを乗せて歌われたものが多い。
どちらが優れているとかはない。
俺は、どちらも好きだ。
ただ、明らかに感性の差がある。
なぜだろうか。

多分、日頃見ていた景色の差なのだと思う。
日本には、見渡す限りの沙漠もない。地平線の彼方、空まで続くような河の左右で、大量の猿が泣き喚いているようなこともない。
その代わりに、細かいことに目がいく。山道を歩いていて、秋の落ち葉が服にまとわりついて衣のようだ、とか。夏の終わり、少し涼しい風に秋を感じ始めた、とか。そういう情景に、細かな心の機微を乗せて歌うのだ。

漢詩は、ハリウッド映画で、和歌はエッセイ漫画、と言ったところだろうか。

少しずつ勉強してきて、気がついたことを、ここまでにまとめてみた。
さらに調べていき、今後、考え方が変わるかもしれないが、一応、この分野への理解が一つ深まったと思う。

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