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【掌編小説】昇華①

 最近、僕の周囲でものが昇華してしまう現象が起きています。昨日まで書斎の机の上にあったはずのボールペンが、朝目覚めたときには跡形もなく、いや、むしろ昨日まで目にしていたあの水色のボールペンは自分が作り出した幻想かと言うように、本当になにも残さずに消えてしまっていたのです。どうしてこんなことが起きるのか、あなたには分かりますか? 我が友人の君ならきっと、物理学だの数学だのを駆使して、この極めて不可解なできごとを解決してくれるんじゃないかと思い、手紙を書いた次第です。

 この、僕の周囲から忽然とものがなくなってしまう現象をぜひ、解き明かしてほしい、そして解決したときにはぜひ手紙をよこしてほしいと思うのです。

 僕にとって友人と呼べる人は君しかいません。そんな君が、物理学に携わっているということを、幸運だと思っています。では、お返事をお待ちしております。

              高校の同級生 春起


 彼は、突如としてーー本当になんの前触れもなくーー送られてきた手紙を目の前にし、眉を顰め頭を斜め四十五度に傾け、丁寧な文字で書かれたそれを読んでいた。そもそも、この最後に記されている‘春起’という名前を見てもすぐに思い当たる人物など存在せず、彼は重い腰を上げ、本棚から一冊の重く分厚いアルバムを取り出すと、そこに載っている一つ一つの顔と名前を目で追っていった。彼の所属していたクラスのページまで到達し、相変わらず春起という名前を頭から片時も離さずに書かれている名前を流し流し見ていると、あるところで彼の目の動きが止まったのが分かった。‘田中春起’と、いかにも真面目と言った見た目のーー笑みすら浮かべていないーー、眼鏡をかけた大人と少年の中間の顔写真の下に、その名前が書かれている。彼の中で顔と名前の一致がようやく行われると、「彼か」と声を出した。彼と‘田中春起’の関係は、あくまで高校の教室内で完結していたものであり、他のクラスメート、例えば親しくない女子のことを呼ぶときのように、‘田中くん’と呼んでいたという記憶が、ふっと池を覆う霧のように思い返された。彼の中で‘田中くん’という人物を友人だと思ったことは一度もなく、しかしながら、ものが昇華するといういかにも心をくすぐってくる事象に惹かれた彼は、‘田中くん’の手紙を大事そうに机の引き出しにしまうと、昇華について考えを巡らせ始めた。

 昇華と言うと、個体が液体という過程を経ずに気体へと変化することだが、なんの変哲もないプラスチックが突然昇華することなどあり得るだろうか。彼は一度‘田中くん’の家へと赴いて、直接話を伺いたくなった。

 週末になり、手紙に書かれている住所をもとに彼の家までやってくると、一度息を吸って吐いてから、インターホンに触れた。一軒家だった。新築の、なかなかセンスのいい、地中海地方に建っていそうな白色の壁とオレンジ色の屋根を持った家で、その前には広々とした庭があり、多種多様な花々が咲き誇っている。花だけでなく、野菜のようなものもあった。彼の中の‘田中くん’の像と、今目の前に広がる景色がとても結び付かず、彼は妙な緊張感を抱きながら、そっとインターホンのボタンを押した。「はい」と、男性ではなく女性の声が聞こえた瞬間、彼は肩に入っていた力をすっと抜き、「春起さんの高校のときのクラスメートですが」と言った。

「はい、少々お待ちください」という声があったあとに扉の開く軽めの音がして、中から清楚という言葉の相応しい女性と、その女性の洋服を掴んでちらりと顔を覗かせている女の子が出てきた。春のような女性だと彼は思った。

「突然すみません。彼から手紙をもらったもので」

「彼なら今ちょうどゆっくりしているところですよ。ぜひ中へ」

 家の中はまるでモデルルームのように整理整頓されており、玄関には靴に染みついた汗臭い匂いなどは一切なく花の香りが充満していた。案内された部屋のライムグリーンのソファに‘田中くん’が座っているのが確認できた。まだ彼に顔を向けていない‘田中くん’は、彼が「手紙を見たよ」と声をかけるとようやく振り向き「わざわざ来てくれてありがとう」と言った。彼はその顔を見た瞬間息を止めた。「田中、くん、だよね?」確かめるように名前を言った。「うん、そうだよ。高校の頃の田中だよ。三年でクラスメートだった」「う、うん、そうだよね。随分と垢抜けていたから、一瞬誰だか分からなくて」彼は目を左右に揺らしながら、アルバムの中の‘田中くん’と今目の前にいる‘田中くん’を交互に見ていた。‘田中くん’は「まあ、それよりも手紙のことについて話そうよ」と、立ち上がり、焦点の定まっていない彼を自室へと連れて行く。彼の記憶にある‘田中くん’と今の‘田中くん’は似ても似つかない、いや、他人と言った方がいいくらいに、見た目も、話し方も、そして姿勢も、すべてが別人だった。高校の頃にかけていた眼鏡はもちろん外れ、くそ真面目という雰囲気は一切払われている。今の‘田中くん’は、人付き合いに苦労がなく、どこまでも溌剌としていて、いかにも好青年そのものだった。

 連れてこられた部屋は余計なものがなく、椅子に机、ゴミ箱に本棚、その本棚に所狭しと並べられた大量の本があるばかりだった。それはいい意味で、高校時代の‘田中くん’と同じ雰囲気だった。

「その、なくなったペンっていうのがどういうものだったかは覚えてる?」

 彼は単刀直入に訊ねた。

「祖母がくれたものだよ。亡くなる直前にね。すごく大切にしていたものなんだ」

 彼は目を伏せつつ、それがあったであろう机の上を見ながら静かに言った。窓から差し込んでくる光が、彼の目元に影を作った。

「そっか、それはショックだっただろうね」

「ああ。でも、ペンだけじゃない。彼女……つまり妻から初めて誕生日プレゼントとしてもらった小説や、娘が可愛がっていた幼い猫も突然消えたんだよ。どちらも僕にとってとても大切なものだったのに」

「なるほど。今の話を聞く限りでは、君の大切なものが消えているという印象なんだけれど、その、最近人に恨まれたり空き巣に入られたりは?」

「知らないところで人に恨まれたりすることはあるかもしれないね。だけど、今パッと思いつく人はいないよ。空き巣も多分ない。それに、ペンや本なんて盗んだところでどうする?」

 ‘田中くん’の言い分は、疑問を投げかける余地がないほどにもっともだった。彼は、腕を組みなにかを考えている‘田中くん’に断りを入れて、部屋の中を隅々まで観察した。部屋にはゴミの一つでさえ落ちておらず、本棚にはいかにも高校時代の田中くんが集めそうな、硬派な小説やら哲学の専門書やらが並べられており、特段変わったところはない。

 それよりも彼の頭を占めているのは、‘田中くん’の顔だった。成長過程での顔の変化というものを遥かに上回っているような気のするその顔を見ると、彼が‘田中春起’であるという根拠が、水で流されていくようにだんだんと薄れてくる。真っ先に考えられるのは整形だが、まさか本人に向かって訊ねられるはずもなく、高校のときの面影を見た目には一切残さない‘田中くん’の隣で、彼は晴れない霞を抱き続けることになった。

「せっかく来てもらったんだし、お茶でもしていかない?」

 ‘田中くん’はちょうど彼が思考を途切らせ、ふっと現実世界に戻ってきたであろうタイミングで話しかけた。

「ああ、うん。そうだね」

 それから彼は、‘田中くん’一家とともに、それはもう理想というような笑いの絶えない休日を過ごした。リビングからは、庭に咲き誇る花の風景がまるで絵画であるかのように見えた。手作りだというクッキーと、自分たちで育てたというミントの茶を存分に楽しむと、彼は田中家をあとにした。

 結局、物体が昇華するということについてのヒントはなに一つとして得られず、帰宅後彼は本やネットから、物理学だけでなく超常現象に至るまで多くの情報を目にしたが、これといった手がかりを手にすることはやはりできなかった。

 ある日、大学から帰宅してポストを確認すると、一通の手紙ーーそれは以前に‘田中くん’から送られてきたものと同じ封筒だったーーが置かれていた。彼はまるで宝物を探し当てた子どものようにその手紙を手に取り、家の中へ入ることも忘れ、生暖かい風が吹き抜けるマンションのエントランスで内容に目を通した。

続く


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