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【掌編小説】昇華②

 大変なことが起きてしまった。どうしたらいいものか僕にはもうなにも分かりません。物理学に造詣の深い君ならきっといつかは、時間がかかってでも解決してくれると信じています。そう、いつか、は。

 実は、妻と娘が消えてしまったんです。木曜日の朝でした。朝いつもは娘が僕を起こしにくるのですが、その日はいつまで経っても現れず、そろそろ時間的にやばいぞと思った僕は、仕方がないので一人ベッドから起き上がり、階段を下りてリビングへ向かおうとしました。しかし、階段を下りている段階から、なにかがおかしい、ということには気がついていました。まず、テレビの音が聞こえない。次に、いつも漂ってくるはずの料理の匂いがしない。家の中は‘無’の状態で満たされている。昨晩、喧嘩でもしてしまっただろうかと思い出してみましたが、そんな記憶は一切ないんです。昨日は酒だって飲んでいない。いつも通り娘と遊び、妻とも特に争うことなく穏やかな時間を過ごし、ちゃんと風呂洗いだってしました。二人を怒らせるようなことは一切していません。なのに、木曜日の朝、二人の姿がペンや猫が消えたときと同様に、玄関に靴だけを残して、他にはなんの痕跡も残さずに消えてしまったのです。

 妻には一目惚れでした。女性に慣れていない僕のことをいつも優しい目で見つめてくれて、僕は人生で妻以外の人に惚れたことなんてない。知っているでしょう? 高校の頃だって僕は誰とも付き合ったりしていない。僕にとって女性というのは、妻だけなんです。

 幸運なことに、妻も僕へ好意を抱いてくれた。そして妻との間に愛しい娘が誕生した。これ以上ない幸せだったのに、今その幸せが目の前から消えてしまった。僕にはもう君しか残されていない。どうか、手を貸してください。本当に、もう、君しかいないんです。

                                      春起


 彼はすべてを読み終えると、しかし冷静な態度でエントランスから自分の部屋まで移動し、書斎へ直行すると手紙を引き出しへしまった。脚のついていないものが消えたというなら、そこにはなにかの力が作用していると考えられるが、脚のある、しかも意思を持った人間が消えたとなれば、話は違ってくる。もしかしたら彼女は、顔の変わる前の‘田中くん’をなにかで発見し、幻滅のあまりなにも言わずに家を出たのかもしれない。

 彼はキッチンにあるウォッカをグラスに注ぐと、水でも炭酸水でも薄めず、高いアルコールのまま喉に通した。さきほどの手紙で醒めた興奮が、アルコールによってより醒めていくのを感じていた。

 しかし、一方で妻や娘に突然捨てられた‘田中くん’があまりにも惨めで、あまりにも可哀想に思えた彼は、週末に再び彼の家へ訪ずれることにした。花は相変わらずみごとに開いており、太陽をさんさんと浴びていた。そこに、‘田中くん’の家族への愛情が垣間見られたような気がした。彼はインターホンを押した。しかし、中から反応はなくもう一度押すと、酷く落胆したような声が、機械を通して彼の耳の鼓膜を振動させた。

「田中くん、大丈夫?」

 数秒の沈黙があった。

「いや、とても大丈夫だとは言えないよ。僕は本当に、なにもかもを失ってしまった」

「とりあえず話を聞くから、中に入れてくれないかな」

 数秒後、重々しい、まるで石の塊の扉が開けられたかのような音に、帽子を被った‘田中くん’が顔だけを外に出して‘どうぞ’と彼を招いた。家の中からは、以前に来たときのような軽やかさは消失してしまっていた。リビングには向かわずに、直接彼の部屋へと案内された。帽子は相変わらず彼の顔を半分以上隠している。

 自室に彼と二人きりになると、‘田中くん’はようやく帽子を脱いだ。彼はその顔を見て、安堵を覚えた。

「田中くん」

 親しみを込めて、高校生のときに呼んだようにその名前を口にした。

「ああ、本当の田中だよ」

 アルバムと同じ顔の“田中”くんは、深く長い溜息を吐いた。そのまま、暗くて深い、一度吞み込まれたら二度と地上の光を見ることのできない池に沈んでいきそうだった。

「田中くん。もしかして、その、整形を?」

「そう。大嫌いでね、あの顔が。だから整形したんだ。せっかく好きだと言える自分の顔が手に入ったのに、それも消えてしまった。この世は残酷だよ。僕のような人間はきっと、自ら変わることさえ許されない」

 ‘田中くん’はすっかり生気を失ってしまっているようだった。字の如くに雪崩のように膝から崩れ落ち、床に蹲り絶望を覆うように、両手で顔を隠した。その背中を見て、彼は高校時代の“田中くん”の丸まった背中を思い出していた。鼻を啜る音が静かな家の中に響いた。本来ならば、家族の笑い声で溢れているであろう空間に。

「その、一つ訊いていいかな」

「ああ」

「どうして僕のことを友人だと?」

「高校時代、君が初めて普通に声をかけてくれた人だったからさ。あんな僕にね」

 ‘田中くん’はまるで子どものように見えた。蹲っている身体は小刻みに震えて、恐怖と戦っているようだった。

「でも、ごめん。きっと僕のせいで君もいずれ消えるんだ。僕のせいで」

 その瞬間、彼の指先が個体から気体に昇華し始めた。彼は消えていく指先に目を遣った。

「嘘だ。こんなこと、物理的にあり得ない」

 彼は酷く困惑した。昇華していく自分の身体の一部を見て、顔を蒼ざめさせた。そうしている間にも、昇華はどんどんと進んでいく。彼は目を見開き、身体を振動させる。

「う、嘘だ。田中くん、そう、そうだよ。今すぐに僕のことを嫌いになってくれ。そうしたらきっと昇華は止まるはずだ」

 彼は懇願した。しかし‘田中くん’は「無理だよ、そんなこと」と泣いて言うばかりだ。

「お願いだ! 僕は君が嫌いだ! だから君も僕が嫌いだ!」

「ごめん」

「君は根暗だ! 酷い根暗だ! 僕は君を友人だと思ったことなんて一度もない。まるで君はストーカーだ! 気味が悪いストーカーだ! 僕は君が嫌いだ!」

 彼は自分を嫌いだと思わせるべく、多くの言葉を投げかけた。しかし、昇華していく現象は止まることを知らず、手が全て消えると今度は腕、同時に脚も昇華していき、最後には顔だけが残された。

「最後に、君の体温を感じさせてくれないか」

 “田中くん”は、手を床につきまるで老婆のように立ち上がり、ほとんど消えかけている彼の顔を両手でそっと包んだ。その手は震えていた。彼もその震えを、確かに感じていた。彼は涙を流しながら

「田中くん、お願いだよ」

 と言った。しかし、その言葉が彼の最後の言葉となった。

 彼は‘田中くん’の前から、まるで初めから存在していなかったかのように、綺麗に姿を消した。髪の毛一本ですら、残らなかった。

 後に残ったのは、‘田中くん’一人だった。彼は立ち上がり、転げ落ちそうな身体をなんとか手すりを使って支えながら、リビングに来た。オレンジやピンク、赤色の花々が風によって揺らされているのを見ている。瞬きをした。次の瞬間には、ぱっとシャボン玉が弾けたかのように花々は消えてしまっていた。

                                      了

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