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ユージーン

 ユージーンには友達がいない。フロイスト・セントバーナード学園において、それは常識だった。1-8教室の窓際に据えられた、落書きだらけの無残な机には今日も造花が飾られている。

 梅雨の明けきらない7月。しとしとと降り続ける雨は排水管を軽やかな音を立て流れていく。マリンバにも似たその音を聞きながら、ベルクはあくびをした。授業が早く終わればいいのに。ベルクは賢い子供だったので授業が退屈で仕方がなかった。教科書もドリルも、入学式を終え配られた当日に全て目を通してしまったベルクにとって授業はもはや消化試合であり、ただ時が経つのを待つだけの時間となっていた。実技教科ならば暇の潰しようがあるものの、座学が主であるこの季節は退屈である。かといってベルクは、年齢不相応の知識を得るほど意欲のある生徒でもなく、ただ学科のノートとは別に用意した落書き帳に、絵や詩や迷路を描くばかりであった。

 教師も慣れたもので、始めこそこのやる気のない生徒に対してあれこれと創意工夫してどうにか授業に参加するよう促したが、落第間近のレイチェルやタフィーと違い、授業の内容が理解出来ないわけではない、という事実に気付くと、ベルクをただの置き物として扱い始めた。それはベルクにとっても大変に都合がいい事で、ノートさえ取ればわざわざ手を挙げて発言する必要もなく、なんなら、昼寝していても問題ないのだから気楽ではあった。長い長い“おつとめ”が終わり、生徒も各々帰路や、部活動のために移動する頃。ベルクも生徒たちに紛れ、ある場所へ向かった。体育館の、舞台の上手袖かみてそでの小さな物置。コートと違い部活動連中が滅多に出入りすることはない小部屋へ、ベルクが通うのには訳があった。

「ユージーン、いるかい?」
「ああ、今日も来てくれた」
薄暗く、ホコリ臭い室内の端。照明室に続く縞鉄板の階段下にユージーンはいた。ベルクは放課後になるとこの薄幸そうな少年と語り合う。バスケットボール部の生徒が引き上げるまでの3時間ほどをこの薄暗い部屋で過ごしていた。
「それで、今日の授業だけれど」
ベルクは賢い子供だったので、同級生であるユージーンに今日1日の授業を、教師よりもずっと効率的に教えることが出来た。板書だけでなく、教科書や補助資料に書いてある様々な事柄をも丁寧に網羅した美しいノートはユージーンの目を輝かせた。

「ベルクは先生になりたいの?」
「嫌だよ。生徒っていうのは、ユージーンのように意欲ある生徒ばかりではないぜ」
「僕は意欲ある生徒じゃあないよ。ベルク、きみが教えるから聞いているだけ」
甘い声でユージーンが囁く。
「好きなのかい、僕が」
「そうだよ、ベルク」
目配せをして、唇を交わす。手探りでノートを閉じると、二人は声を出さないよう気を使いながら愛し合った。鍵のかかってない扉の向こうからはボールを床にバウンドさせる力強い音が聞こえる。ユージーンの白い指はベルクのチョコレート色の肌をなぞって、一番熱い芯をやわやわと擦り上げた。夏のせいだけではない、蒸れた服の中をつたう汗は内腿を流れ、ワックスの剥がれかけた床板に落ちていく。
「ユージーン」
息も絶え絶えにベルクが名前を呼ぶと、ユージーンは微笑み、さらに奥へと指を這わせていった。ベルクは必死に口を押さえ、ユージーンにしがみ付くようにして果てる。青々しい香りがぱたぱたと音を立てて零れるのを満足げに見下ろすと、ユージーンはベルクに深く口付けをし、ごめんね、と小さな声で謝った。
「きみがあんまりにも可愛いから」
「堪忍してくれ、僕ばかり」
この秘密の場所へ来るようになってから、周到に持ち歩くようになったティッシュで汚れを拭き取る。ユージーンはその様子を眺めながらくすくすと笑った。

「それじゃあ、また月曜に」
「またね、ベルク。愛しているよ」
人の気配が少なくなったのを見計らって物置部屋を出ると、体育館の端っこでは未だバスケットボール部の生徒たちが着替えやアイシングをしていた。
「ベルク、きみ、あすこでいつも何してるんだい?」
「自習だよ。僕はお前たちより真面目だからね」
「どこが。授業中いつも寝てるって、ザイード先生がボヤいてたぞ」
べ、と舌を出しながらベルクは体育館を後にした。身体の疼きは未だくすぶっている。

 夏休み。この期間は部活動以外の校内への立ち入りを禁じられていたため、長らくユージーンと会うことはなかった。ベルクは冷房のききが悪い自室の隅でアイスキャンディを舐めるたびに、ひやりとしたユージーンのを思い出しては恋しがっていた。宿題は当然初日に済ませていたベルクは、予習と称して部屋に鍵をかけ、毎夜ユージーンの事を思っては、アイスキャンディに舌を這わせ、それから身体中を蜜まみれにして己を慰めていた。連絡先くらい交換しておけばよかった、と度々後悔をしながら、吐き出せない熱に悶々とする日々を過ごしていた。

「ベルク、あなた、具合でも悪いの」
「へ?」
「中等部へ上がってから、随分と体重が落ちたんじゃない?」
母が心配するのも無理はなかった。ベルクは元からそれほど肉がある方ではない。それが、最近は肋骨が浮くほどに痩せていたのだ。
「平気。体重なんて、思春期の息子に聞かないでよ」
逃げるようにして部屋へ戻る。ベルクは、なんとしてでもユージーンに会いたいと思っていた。その日の晩、ベルクはこっそりと家を抜け出すと、夜の学校へ忍び込んだ。

「ユージーン」
「ベルク、きみ、随分と不良になったじゃないか」
真っ暗な物置部屋には、申し合わせたようにユージーンが待っていた。今日は惹かれあったのだ、とベルクは興奮していた。
「ユージーン、僕は、君がいないとおかしくなりそうだ」
ノートや資料の入った鞄を床に放り投げると、ベルクはユージーンを押し倒すようにしてキスをした。ユージーンは動じることもなく、むしろ、そうする事が当然のように受け入れると、するするとベルクの服を剥いで行った。闇に溶けるようなベルクの肌が月光に晒される。
「ユージーン」
「お菓子みたいな匂いがするよ、ベルク。どうやって遊んでいたの」
ベルクの身体中を愛撫するユージーンの舌はアイスキャンディのように冷たく、ベルクは凍り付くような痛みと無限に続く快楽で気を失った。

 朝になり、目を覚ましたベルクは、部活動の連中が来る前にと慌てて服を整えて帰路に着いた。ベルクは窓から自室に入り慌てて布団に潜ると、数秒後に母親が部屋の戸をノックする音で目を覚ましたかのように振る舞った。幸い、誰一人としてベルクの奇行に気付くものはなかった。

 ベルクは繰り返し物置部屋に通っては、ユージーンと愛を確かめ合っていた。新学期が始まり、およそ1ヶ月半ぶりに再会したクラスメイトは、まるで化け物でも見るかのような目でベルクを見ていた。骸骨のように痩せ細ったベルクは己の異常に気付くことはなかった。

 ある日のこと。事件が起こった。クラスメイトが教室でバスケットボールを投げてふざけていると、投げ損ねたボールがベルクの後ろの座席、落書きだらけの机の花瓶を叩き割った。ガチャン、と花瓶が地面に落ちた音で駆けつけた教師は、側で座っていたベルクの足から血が流れているのを見ると、保健室へ行くよう指示した。幸い傷はそれほど深くなかった。破片を抜いて消毒を済ませ、大判の絆創膏を貼ってもらい保健室を後にしたベルクは、そのまま教室へ戻る気も起きず、保健室と近い事もあり、いつものように物置部屋へ向かった。たまたま授業もなくしんとしたコートを突っ切り、部屋に入ると、いつ何時でもそこにいるはずのユージーンは姿を表さなかった。
「ユージーン?」
呼びかけるも返事はない。待てば来るかもしれない、と小一時間座っているうちに、ふと、ベルクの瞳から涙が流れ落ちた。もうユージーンは来ないのだ、確信めいたものがあった。ベルクは過呼吸を起こすほど泣いていた。戻ってこないベルクを心配した教師が、バスケットボール部の生徒の証言を頼りにどかどかと部屋に踏み入ってきた。

 ユージーンに友達はいない。まことしやかに囁かれていた噂は翌年も語り継がれていた。ベルクはもう物置部屋に寄ることはない。時々あの冷たい指を思い出すことはあっても、それほど激しく感情が揺さぶられることはなくなっていた。
(僕はユージーンのなんだったのだろう)
アイスキャンディをかじりながら、ベルクは誰ともなく呟いた。

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