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愛を形成できたらしい話

親が子どもに対して愛を注ぐ。
あたりまえに行われることである、と教えられたり本で読んだりする。
だから私たちはそうであるのだろう、と覚える。

私の両親は普通ではない。
彼らが育ってきた家庭環境は、今なら何かしらの形で社会から制裁を受けるのではないかと思う。
そしてまた私も普通ではない。
じっくり見ると、どこかしら歪んでいるのが私の家だ。

私が小学生や中学生の時期をすごしていたとき、家では愛らしきものはよく暴力となって表れた。
殴られたり蹴られたり、無理難題を言い渡されることが日常だった。
それがいいか悪いかは置いておくとして、これがまず親から私に与えられた愛らしきものである。


高校生になって、初めて暴力とは無縁の生活を送ることになった私は困惑した。
殴られることも蹴られることも、無理難題を言い渡されることもなくなったのだ。
今までずっと、暴力という愛らしきものを愛として受け取ってきた私である。殴られるのは嫌でも、殴られると安心できるようになっていた。
そして、殴ってこない相手に対して疑念を抱くようになった。


「私に注目してくれていないから何もしないんだ」
勝手に悲嘆に暮れて喚いた。相手をいきなり問い詰めたこともある。


そうして何年か過ごしたある日、私の話を聞いていた人から
「愛というのは暴力ではない」
という衝撃的な事実を教えられた。


ここでようやく私は暴力ではない愛とはなにか、親が子どもにくれる愛とはなにかについて考え始めた。

とはいえ、そうそうわかるものでもない。
辞書で調べたりいろいろな人に訊いたりして、人と付き合ってみるとかもした。
また何年か経ったけれど、いまいちわからなかった。

そんな私にも転機が訪れる。
その転機は道徳的にいうとよくないものではあったけれど、私にとってはとてもいいものだった。
端的にいうと浮気をした。
その浮気相手のおかげで私は一種の答えを得ることができた。

彼は仕事終わりにすぐ私のところへ来てくれた。
1週間ほど一緒にいて、私はその期間中ほとんどお財布を出すことがなかった。

彼に、どうしてそこまでするのかを尋ねたことがある。
その返答は
「一緒にいる時間や話したことに価値があるから、そのお礼」
というものだった。

この答えは私にかなりの革命を起こした。
私がいること、私が感じたことなどを共有することに価値がある。
彼はそれをお金を出すということで私に伝えてくれていた。
つまり、お金でも気持ちでも、嬉しいとか楽しいとか、そういった価値を相手に伝えられれば、一種の愛と呼べるものになるのではないか。

それが1つの答えとなってからの私は以前よりも迷いがなくなった。

親からの子どもに対する愛情についてはあまりわからない。
私自身がもらったという実感がないからかもしれないし、子どもができてみたら何か気づけることがあるかもしれないけれど、そういう気持ちでこの世を歩かせるべきではないと思うので、考えるに留めておくことにする。


私が思うのは、人を大切にするという意味では恋人も子どももそんなに変わらないのではないか、ということ。
私が気づけたのは恋人ではなかったけれど、したことは恋人と同じだ。
楽しいとか嬉しいとか、悲しいとかつらいとか。
そういう感情やできごとを暴力を用いずになるべく多く共有して、その結果「自分はいるだけで価値があるんだ」
と感じてもらえたら何よりと言えるような気がしている。

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