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私たちは、どうして学ぶことが楽しいのだろう

「私たちって、こうやってたくさん本を読んで、学んで、何を目指しているんでしょうね」
そんな言葉がふと自分から漏れたのは、ライブ配信も佳境に入ったタイミングだった。

3月9日の夜に配信した「100分de語る100分de名著」。
100分de名著好きが集まって、読み方やおすすめの作品を語るライブ配信の最中、ふと私たちは何を目的にまなんでいるのだろう、と疑問が湧いた。

率直にその質問をぶつけてみたところ、回答は三者三様。
しかしまなびにゴールはなく、自分が得するため以上の価値を見出している、という点は共通していた。

人生100年時代、「大人のまなびなおし」はたびたび話題になるテーマだ。
しかし、そこで言われる「まなぶ」は仕事に役立つ知識やスキルなど、即効性が期待されるものであることも多い。

もちろん生き抜いていくためにはすぐに使える知識や世の中に必要とされるスキルも必要だ。
でも「それだけ」では、人生は味気ないものになってしまう。

100分de名著が取り上げる名著は、儲かる方法を教えてくれたり、悩みを魔法のように解決してくれたりはしない。
むしろ「この問題は簡単には解決できるものではない」という結論に到ることの方が多い。

ただ、複数の古典を横断して読んでいると、まったく関係のないような作品たちが同じようなことを言っていると気づくことがある。

人は複雑な生き物であること。わかりやすくすることと単純化することは違うということ。
空気に流されず自分の頭で考える必要性。利己心という人間の本性。
平和を維持することは面倒なプロセスが多くて戦争をするよりはるかにコストがかかるということ。

こうしたまなびは、明日急に役に立つものではない。
でも、私たちがあと何十年と生きていく上で、必要不可欠な教養だ。

ライブ配信の中で、私は「100分de名著にふれはじめてから、自分の道徳心がアップデートされていくのを感じている」という話をした。

それは単に人に優しくするとか寛容になるといった人格的な話ではなく、「面倒だけど大切なこと」を途中で投げ出さない忍耐力や、みんなが熱狂的に支持していることを一歩引いてみる冷静さのようなものに近い。

カントは「永遠平和のために」の中で、道徳とは普遍的に正しいことである、といった。
同じ状況に置かれたら、誰であってもこうするのが正義だと言える行動。
それこそが道徳的に正しい行いである、ということだ。

とはいえ、世の中には人の数だけ正しさがある。
文化背景や風習が違えば、同じ場面にでくわしても「正解」とされる行動は異なるかもしれない。

だからこそひとつの正解に拘泥しすぎず、相手の正解にも思いを寄せること。

そうした忍耐強い姿勢を、道徳心のある状態というのではないか、と私は思っている。

ライブ配信の中で、私は「知識は人に優しくなるためにあるはず」という話をした。
その元となったのは以前このnoteに書いたことだ。

教養を身に付けるということは、その知識量で人をマウンティングするような行為とは真逆に位置している。

鳥井さんも言っていたけれど、まなぶほどにわからないことが増えていくし、知識に対して謙虚になっていくものだからだ。

そしてまなべばまなぶほど、自分とは異なる立場にいる人たちの視点が増え、誰かを一方的に悪者にすることはできなくなる。

あらゆる立場を否定せず、ときに利益が相反する関係性の利害を調整するという面倒なプロセスを決して諦めないこと。

そうした平和で住みよい場所を作るためにこそ、私たちはまなび、自省していくのかもしれない。

私にとって、その入り口が100分de名著だった。
1日のうち、5分でも10分でも、豊かな古典の世界にふれること。

即効性はないかもしれないけれど、その積み重ねが私たちの世界を少しずつ変えていく。

そしてその「変わっていく」感覚こそが、まなぶ楽しみなのかもしれない。

***

今回のライブ配信の全編は、Wasei Salonもしくは消費文化総研に参加している方であればどなたでも視聴可能です。

100分かけて、おすすめの作品や古典を読むとは何か、100分de名著から派生してまなんだことなどを4人のメンバーが語っています。


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